多難な内外-情勢

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 大正九年の大戦後の不景気、大正十二年の関東大震災後の不況、昭和時代に入って時代が変わったので、少しは景気に明るさが戻ってくれるであろうという庶民のかすかな願いもむなしく、銀行が多数倒産した昭和二年の金融恐慌、そして昭和四年から六年に続く世界大恐慌などの経済危機が日本を襲った。こうした社会的背景の中で、農産物や水産物の価格は下落し、これに凶作が追いうちをかけ農漁村の生活は困難となり、特に農村では欠食児童や娘の身売りなどが出現し、小作争議が激化するなどの傾向が現われた。昭和六年、東北・北海道では夏に低温が続き、秋になりはっきりと大凶作の様相を示し、前年に続く不景気風の中で、東北・北海道の農民達の生活はどん底に落ち込んでいった。農民の食糧は、くず米を食べ江戸時代の饉飢の時のように、山に入ってワラビの根を掘り、山菜という山菜はなんでも口にするような、生きるのが精一杯という状況となった。
 極端なこうした社会情勢は纎細な詩人宮沢賢治の胸を痛く打ち、彼れをして「雨ニモマケズ」の詩を書かせることになったのである。
     十一月三日
   雨ニモマケズ
   風ニモマケズ
   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
   丈夫ナカラダヲモチ
   欲ハナク
   決シテ瞋(いか)ラズ
   イツモシズカニワラツテイル
   一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ野菜ヲタベ
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジヨウニ入(い)レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ
   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小(ちい)サナ萱(かや)ブキノ小屋(こや)ニイテ
   東ニ病気(びょうき)ノコドモアレバ
   行(い)ツテ看病(かんびょう)シテヤリ
   西ニツカレタ母(はは)アレバ
   行ツテソノ稲ノ束ヲ負イ
   南ニ死ニソウナ人(ひと)アレバ
   行(い)ツテコワガラナクテモイイトイイ
   北ニケンカヤソシヨウガアレバ
   ツマラナイカラヤメロトイイ
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ
   ホメラレモセズ
   クニモサレズ
   ソウイウモノニ
   ワタシハナリタイ
 昭和六年十一月の朝日新聞によれば(要約)山形県最上郡西小国村の人身売買の惨状を次のように報じている。
 
   「娘身売の場合は当相談所へお出下さい」という掲示が村役場の前に張り出され、娘を売った家を三、四軒訪ねてみた。「何故に」という問に対してその人々が東北人らしいぼくとつさと農民らしい宿命的なあきらめのうちに答えたことはどれも「外に仕方がない故に」といふことだった。
 
 生活に困難を感じているのは農民ばかりでなく、漁民もまた不漁と大不景気による物価下落(水産物の価格低下による収入の減少)により生活は困難となっていた。
 また都市では、企業の縮小や倒産が相次ぎ賃金の引き下げや首切りが行われ、労働争議は激化の傾向を見せ、日に日に失業者はその数を増していくような有様だった。
 当時の函館の新聞は、打続く不景気の様子を次のように報じている。(元木省吾著「函館の履歴書」を参考とする。)
 
  ・昭和二年
  ※ 千代岱のゴム工場の従業員一同は、保健料金を全部、会社で負担せよと要求し、一月十七日ストライキに入る。女工連は争議費用のため、行商し、「市民諸君に訴う」の宣伝ビラまく、二百人の男女工戦う。賃金も低く男工初任一円十銭、女工は三・四年しても六七十銭、一時からの深夜徹夜作業もある。一月二十九日、七ヶ条の覚書に社長と職工側代表五名署名して、争議妥協する。
  ※ 本年に入り、三月まで労働争議四回、浅野セメント(株)、函館商事のゴム争議、昆布同業組合、函館の雑夫首切り問題。
  ・昭和三年
  ※ 函館ドツク従業員六百余人要求拒絶せられ、二月十日怠業に入る。従業員が、工場設備、衛生施設改善につき声明書発表、三月十一日、数日前解決と川田社長談話。
  ・昭和四年
  ※ 千代岱函館製菓(株)の管理人五十嵐正次郎は、数十回にわたり、女工を規定の八時間を十一時間以上働かせて、区裁判所で罰金五十円、十一月一日。
  ・昭和六年
  ※ 当市在住の印刷工が「印刷労働組合」発会式、十二月六日、大森アパート四十名、印刷商組合から、賃金二割値下げられたので、急にまとまつた。組合長中山清。
  ・昭和八年
  ※ 多数の失業者が、市役所と職業紹介所に、「仕事を与えよ」と、「公平に人選を行えよ」と、百人から二百五十人位集る。指定人夫三十名は、指定を廃されたので、指定を存置せよと、市長に陳情する。一月十日。
 
 一方このような社会情勢の中で、倒産した企業を合併し、かつ政府と結びつきの深い財閥は、次第に巨大化し政治面における発言力も次第に増す傾向にあった。