昭和二十三年

268 ~ 272 / 1354ページ
・一月二十六日 帝銀事件おこる。
・四月一日 GHQ国旗掲揚を許可。
・五月五日 ソ連引揚再開第一船、函館着。
・七月三十日 マッカーサー書簡により政令二百一号が公布され、公務員の争議権・団体交渉権に制限が加えられる。
・十一月一日 主食増配を実施(二合七勺)米を配給するのではなく、米に相当するカボチャ・ジャガイモ・小麦粉・そば粉・パンなどを配給する。
 この年もまた戦後の混乱期で種々の出来事があり、新聞やラジオには、しきりに栄養失調・餓死・空巣などの文字が氾濫しており、戦後の暗黒色より抜け切れないでいる年であった。
 こうした世の中で人々は、映画やダンスに明るさを求めており、そろそろ女性のパーマネントにスカート姿や男性の長髪ポマードスタイルが見られるようになってきた。
 この年流行した洋画では「美女と野獣」・「凱旋門」・「石の花」、邦画では「破戒」・「酔いどれ天使」・「肉体の門」・「鐘の鳴る丘」などがあった。この頃都市では必ずといってよいほどダンスホールがあり、ダンスに興ずるばかりでなく、戦争中にはとても考えられなかったような、男女むつまじく語らい合う姿がそちこちで見られるようになった。
 また流行歌では「湯の町エレジー」・「誰か夢なき」・「東京ブギウギ」・「異国の丘」などがよく歌われていた。
 その他、国民の胸おどらせたものに、古橋広之進の六つの世界記録(水泳)がある。
・当時の新聞記事から
 
    昭和二十三年五月二日 函館新聞
     引揚者を暖かく
   私は引揚者援護学生同盟として、西浜岸壁から無縁故者を援護局へ送るトラツクに同乗しました。走る自動車が街路に出たとき、麗らかな日の事とて絹の靴下の娘や、色とりどりの日傘姿、店先にならぶ美しい品々が目に映つた。
   引揚者たちは驚いたようすで「ここは戦争がなかつたの」と聞く人もあつた。また店頭の果物を見て「ああリンゴだ」とか「みかんだ」とか大人も子供も歓声をあげた。その中で「金さえあれば子供に食べさせられるのになあ」といつた人があつた。私は心から気の毒に思つた。
   引揚者は、皆消毒のため髪が白く乱れていた。ある一人は「私たちに純粋な日本人になれたんだよ」とそばの人にいつていた。皆の眼には、うれしさと苦しさの涙が一ぱいであった。私は、この人達が住宅難・食糧難の地に上陸後、はたして幸福にすごせるかと思うと、一層引揚者を暖かく迎えようとする気が強くなった。ともに力を合せ引揚者援護につくそうではありませんか。
 
 引揚
   引揚の足あと(函館入港を中心として)
昭和二〇年
   七・二四 米・英・中三国によりポツダム宣言が発せられる。
    八・九 ソ連対日宣戦を布告。
   八・一〇 樺太からの避難者、発動機船等によって稚内及び付近海岸に殺到する。当時樺太からの引揚数約八万人以後の脱出帰還者約二万。
   八・一五 終戦
    九・二 降服調印式ミズリー艦で行われる。
   九・一七 バーネル少将の率いる米進駐軍函館に上陸。
   九・二二 総司令部より、政府に対し日本軍人復員引揚の命令が発せられる。
昭和二一年
   九・二六 十月以降シベリア及び樺太から日本人送還の用意ある旨ソ連当局が発表したと渉外局より発表あり。
   一二・五 引揚第一船雲仙丸感激の函館入港。次いで七日白龍新興、八日大隅各船入港。

引揚第一舟雲仙丸樺太より入港 昭和21年12月6日北海道新聞

昭和二二年
   一・四 第二次引揚船間宮丸入港。続いて五日白龍、六日北鮮・宗谷の各船入港。
   四・六 第三次引揚第一船雲仙、第二船大隅相次いで入港、八日以後引続き入港、当月中合計十九隻に達す。
    五・三 引揚船間宮・泰北二船入港、引続き月末迄に月合計二十二隻入港。
    六・一 引揚船大隅・雲仙二船入港、以後引続き入港六月中合計二十二隻。
    七・二 引揚船大隅・雲仙二船入港、以後引続き入港七月中合計二十一隻。
    七・二 千島地区最初の引揚者三百十八名白龍丸にて入港。
   八・一八 引揚船徳寿丸外三隻入港、其後の入港三隻月合計七隻。
    九・六 引揚船徳寿丸外三隻入港、以後二十四日までに八隻(内二隻ナホトカより)相次いで入港合計十二隻。
   一一・四 ナホトカよりの引揚船山澄丸入港、以後二十二日迄に六隻、合計七隻入港。
  一一・一〇 眞岡よりの引揚船長運・北進二船入港、以後二十日乃至二十五日の期間に四隻合計六隻ナホトカ引揚船と交互に入港、此の月総計十三隻となる。
   一二・一 ナホトカ引揚最終船大安入港。
   一二・六 今次眞岡引揚最終船長運外二隻入港、本月引揚船総計四隻。(以後二十三年八月頃まで引揚船は続々と函館港に入港するが以下は省略する。)
 
◇引揚風景
                          三島智善
 ひげ深き頰にすり寄せ出迎の子を抱く人は言葉に言はず。
 支給されし被服抱きて涙する老女のすがた男とまがう。
                          宮崎大四郎
 帰り来て埠頭に仰ぐ日のみ旗『国亡びず』と頰に涙する。
 かにかくに祖国にこそ帰りけれ生きの地獄の域をのがれて。
 帰り来て寄るべもなみの浦島が子の嘆きをば見せぞ今に。

鐘の鳴る丘 昭和23年9月9日 笠置シズ子 昭和23年7月23日 北海道新聞