流刑の地

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 大治元年(一一二六)中尊寺金色堂を落慶し、全盛を極めていた藤原一族は、文治五年(一一八九)源頼朝の軍勢に滅ぼされ、これを機に津軽地方に進出した鎌倉勢力は、蝦夷地(現在の渡島半島海岸部)の様子をほぼ把握できるようになっていたようである。
『吾妻鏡』によれば、鎌倉幕府は、建保四年(一二一六)京都東寺の凶賊や強盗海賊など五十余人を蝦夷地に流刑し、更に文暦二年(一二三五)には、強盗や夜盗を蝦夷島に流刑することを六波羅に達したと記されている。
 以上のことより、この頃既に、本州方面より渡来した人々があったことが、推察できる。