明治元年十月から箱館戦争のために青森へ引き揚げていた箱館府は、そののち政府軍の勝利により、ようやく明治二年五月十九日箱館にもどり、清水谷総督を中心に箱館府の行政事務が行われることになった。
慶応三年(一八六七)の触書留は箱館運上所において再度行政事務を取り扱うことを次のように記している。
慶応三、觸書留(北海道大学蔵)
六月朔日
觸書
今般當村府平定相成候就而者今十九日より裁判所代として於二運上所一諸事取扱候条市在一同末々至り候迠可レ得二其意一者也。
箱館府
己五月 裁判所
前書之通被仰出候間此段相觸候以上
箱館府
町会所
下湯川村ゟ
長万部村迠
このようにして再開された箱館府はまず、第一に戦争の被害について調査を行い、米金銭を与え白米を低額で販売するなど住民の救済を図り、更に一年間の諸運上金(税)の徴集を免除している。また榎本軍によって鋳造使用された贋金の回収や同じく榎本軍によって一部商人に認められていた特権の取り消しや、その他の戦後の処理が行われた。
しかし再開された箱館府が行政権を持っていたのは約二ヵ月余りで、行政改革のため明治二年七月八日に開拓使が設置され、これによって七月二十四日箱館府は廃止された。