椴法華は享保年間(一七一六-三六)ころから尾札部領椴法華、明治二年八月十五日の太政官令からは茅部郡尾札部村の支郷であるため、村の各種の布達・届出・認可・徴税等の業務は、本村である尾札部村の決裁を受けた後、更に必要に応じては、砂原・函館に所在する上級の役所の決裁を受けなければならず、村行政上はなはだ不便であり負担でもあった。そののち明治六年一月から椴法華は戸井出張所管轄下に置かれることになったが、本村である尾札部村は砂原出張所で、枝郷である椴法華は戸井出張所にと分かれ、村政を進める上で甚だ不便な点が多かった。
また椴法華郷においては明治以後人口も増加しつつあり、社会情勢の安定に伴い経済力も強まりつつあった。こうした状況の中で椴法華の住民の間に一村独立の気運が高まり、かくて明治六年早々一村独立を函館支庁へ出願した。
しかし次の資料にも記されているように、本村である尾札部村の連印が無いことを理由に、この時一村独立は官の認可するところとはならなかった。
『明治六年 戸井往復』(北海道蔵)
(朱書)中判官印(杉浦) 民事掛印(原)
一 尾札部村枝郷椴法花之義今般一村落相願候ニ付右ハ本村熟談濟之由ニ而願書壱通被遣候得共本村連印無之候而ハ信用難相成依及返却候間本村調印之上幷当掛控之分共都合弐通彼差越有之度候
(中略)
三月三日 民事掛
高橋六藏殿