明治初期椴法華村の昆布漁

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 明治九年十一月に開拓使に提出された資料に基づき作成された「昆布取獲高調、茅部椴法華村」(北海道蔵)によれば、明治五年から明治九年までの昆布の個人収穫高について次のように記されている。(部分)
 
     調書
  一、磯船                        壹艘
  一、昆布取夫                        壹人
  一、昆布四石壹斗六舛                  明治五年分
  一、昆布壹石弐斗七舛六合                明治六年分
  一、昆布弐石五斗四舛四合                明治七年分
  一、昆布六石弐斗八舛弐合                明治八年分
  一、昆布弐石五斗七舛弐合                明治九年分
  右之通御座候也。
  明治九年十一月   椴法華
                            平沼八右衛門 印
            村用掛
                            佐々木弥三郎 印
            副惣代
                             増輪半兵衛 印
  開拓使三等出仕杉浦誠殿
 
     調書
  一、持府                         壱艘
  一、磯船                         四艘
  一、昆布取夫                        五人
  一、昆布弐拾石八斗                   明治五年分
  一、昆布六石三斗八舛                  明治六年分
  一、昆布拾弐石七斗弐舛弐合               明治七年分
  一、昆布三拾壹石四斗壹舛                明治八年分
  一、昆布拾弐石八斗六舛壹合               明治九年分
  右之通御座候也
  明治九年十一月   椴法華
                              越崎與作 印
            村用掛
                            佐々木弥三郎 印
            副惣代
                             増輪半兵衛 印
  開拓使三等出仕杉浦誠殿
 
 右の資料から、明治初期椴法華村では、昆布採取には磯船と持府が使用され、昆布採取船一隻に付き一人の昆布取夫が定められていたことがわかる。
 また「昆布取獲高調」の全体を調べてみると、漁家一軒で一隻の昆布採取船を出漁させている家が二十九軒、つづいて一軒で二隻の磯船を出漁させている家が十軒、以下磯船一隻と持府一隻を出漁させてみる漁家が七軒というような状況であった。
 このように村内の全昆布採取漁家五十八軒中、四十六軒が一名から二名の昆布取夫により仕事が行われており、約八十パーセントが雇い人を雇うことなく自家の労働力により、経営されていたことが知られる。
 また、村内で五隻の昆布採取船を所有している家が一軒あるが、椴法華村でこの他にも大謀網などを経営していたといわれる親方の一人であり、同家の雇い人も鑑札を持って昆布採取に従事していたものと考えられる。
 次に明治十年代に椴法華村で生産されていた昆布の種類について記すことにする。
 明治十二年十二月、元椴法華(現在の元村)で津軽郡油川村の松栄丸が沈没したが、この時の椴法華村からの積荷に、元揃昆布と手操昆布の名がみられる。
 また明治十八年に制定された「椴法華村漁業組合申合規則」の第十九条では、昆布の種類を手操昆布と元揃昆布の二つに分けて規定され、更にこの後の明治十九年に追加された第四十一条では、「昆布ハ長切、元揃ノ二種ト定メ」と改められている。これらのことより明治十八年ごろまで椴法華村産の昆布は、手繰昆布と元揃昆布に製造され、明治十九年からは長切昆布と元揃昆布と改められたことがわかる。

椴法華昆布漁家経営実態(明治五年~九年)
(昆布取穫高調、茅部椴法華村より作成)