烏賊漁の沿革

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 烏賊漁は古く前松前藩時代より始められており、『松前志』天明元年(一七八一)著によれば、「此物近年より海人捕り獲ることを得たり、福山の海洋殊に多し」とある。
 この時代烏賊を漁獲するといっても、現在のように本格的に烏賊を釣り、するめや、塩から、その他の加工品にすることなどはなく、漁民の食べるだけあるいは釣り用のえさとして、少しばかりが漁獲されるだけであったようである。その後前幕領時代となったが、依然として漁民の食べ料あるいは釣り用のえさとして漁獲されるぐらいで、ほとんど烏賊漁は重要視されていなかった。なお『新北海道史第二巻』によれば、当時烏賊が主として漁獲されていたのは、松前あたりより西蝦夷地岩内場所あたりまでであり、その中では福山・江差が多かったと云われている。
 その後幕末になり箱館が開港されたことによって蝦夷地産の「するめ」が箱館から中国向け輸出品として積み出されるようになり、需要の増加は烏賊の値段の上昇をもたらし、漁民の中には烏賊漁に本気で取り組む者があらわれるようになった。こうした中で長崎俵物の一つである「するめ」は、年々その産額を増していき文久三年(一八六三)には三十万五千斤余の「するめ」が中国へ輸出されるほどになり、漁民もまた積極的に漁具や漁法についていろいろな工夫を試みるようになっていった。