国内では大正三年の第一次世界大戦や大正七年の米騒動、渡島地方では大正四年の大不漁などのために、経済的に不安定な時期にさしかかっていた。しかし椴法華村では大正元年の烏賊、それに引き続く秋鰮の大漁、大正四年の秋鰮の大漁、大正五年の昆布・烏賊の豊漁、大正六年の鱈の大漁などにより、比較的生活は安定していたようである。
大正元年川口勇吉を中心に椴法華回漕店が開設されたが、これはそれまでの艀船業より更に充実したもので、他の海運業者の船便による荷物の取扱いをするだけでなく、自社の船や倉庫等を所有し独自でも海運経営が出来るものであった。このように椴法華村で回漕業を経営できるようになった理由は、年間を通じ一定量の貨物の移出入が確保され、船や倉庫等を運用できるだけの経済力がついたためであろうと考えられる。
・大正十一年以後の運輸・サービス業
左の表の中で営業戸数が多いのは、雑貨荒物商・運送業・海産仲買業等であるが、運送業について記すと、大正十一年に十戸であったものが、大正十三・十四年には、わずか二戸にまで減少している。この理由は何であろうか、運送業として記されたものには、海運関係と陸運関係とがあるがその大部分は海運関係のものであった。海運関係の運送業としては、沖の本船と沿岸を結ぶ艀船業と船及び倉庫を所有し回漕業を営むものとがあったが、ちょうど大正十二・三年頃に、有力回漕業が台頭し、その他船の大型化なども進んできたため、従来からの艀船業が合併されたり閉鎖されるなどの事が起り、経営戸数が減少したものと云われている。この他に陸上輸送にかかわるものとして駄送があったが、硫黄鉱石や薪の運搬に使用される程度で、貨物の輸送量は限られたものであった。
[表]
・湯屋
本村の湯屋は大正時代の始めに開業されたと云われており、温泉としては江戸時代の中頃から開設されたところも道南地方にはあるが、人口二千人以下の漁村で大正初期から湯屋が開業されているのは、非常に珍しいことであった。湯屋の経営が出来たということは村の経済が漁模様に左右されるとは云え、比較的安定しており住民の利用度も高かったためと考えられる。
・料理屋・飲食店・代書屋
大正十一年には料理屋と飲食店が各三店あり、他に代書屋が一店あるが、どんな人々によって利用されたのであろうか。椴法華村では当時、烏賊・鰮・鱈等の大漁の後や切り上げの時など宴会を開く機会が多く、また入稼者達が多数来村していたためこれらの店がよく利用されたものであろう。
代書屋があるのは、御役所に提出する書類に面倒なものがあり、専門的知識を持つ代書屋に書いてもらったり、あるいは老人や婦人の中に文字をうまく書けない者があり、代筆を頼むところから結構に繁昌していたと云われている。