人馬賃銭と駅馬

746 ~ 746 / 1354ページ
 前幕領時代の会所や通行屋(会所=前松前藩時代の運上屋が改められたもので、運上屋の機能の他に公務も行う。通行屋=宿に用いる。)などには、馬を引いたり船を漕いだり、荷物や書状を運んだりする人足が村や場所で決められ、最初は人夫賃として一日米五合ないし一升と定められていた。その後享保三年(一八〇三)からは一里に付、人足一人銭二十文、馬一頭銭四十文、難所や山道は人夫賃二割増と定められるようになった。
 『新北海道史第二巻』によれば、「箱館村二十四か村の人馬賃銭も同様であったが、村が困窮なので、文化五年(一八〇八)八月から文化九年(一八一二)七月まで四か年間、一里につき人足は銭六文、馬は銭一〇文ずつ増銭を願いで許され、文化九年八月さらに四か年間増銭継続を許された。しかし、人口が少ないうえに、官吏の往来は春秋の漁期と競合するため、人足に徴せられる者はかなりの苦痛を伴った」と記されている。
 また駅馬については、寛政十一年(一七九九)幕府により東蝦夷地の道路開削のおり、馬六十頭と牛四頭が南部藩から購入され使用されたが、工事後これらの馬は東蝦夷地の各場所に配布され駅馬として使用されることになった。
 その後路の増加により東蝦夷地から西蝦夷地へも配置されるようになり、駅逓用、工事用として利用されるようになった。なおこの時代使用された駅逓馬は大部分が官有馬であり、特に奥地においては貴重なものであった。