椴法華・尻岸内間の通行

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 後松前藩の時代と同様、椴法華尻岸内の間は、陸路と海路の両方があり、陸路はかなり整備され一部を除き馬が通行可能となっていたほどである。しかし尾札部との交通は未だ海路のみしかなく、搔送りの船(船渡)が設けられていた。
 安政四年(一八五七)の玉虫義著『入北記』では当時の様子について次のように記している。(根田内より恵山を越え椴法華・古部へ向う)
 
   サテ此山麓(恵山)ハ火山ノ傍ユヘカ大木更ニナシ、女石楠花或ハドウダンノ類ノミナリ、夫ヨリ小憩、北ニ向ヒ半里斗ニシテ険坂乗馬ニテ上下ナラズ、山中左右欝々見ル所ナシ、右坂ヲ下リ終リテ村アリ、椴法華村ト云フ、同所小頭役三次郎方ニテ午飯ヲ喫ス。戸数二十、小村ナレドモ、鱈鮫或ハ鰯ノ類ヲ漁シ。且昆布ノ名産アリテ宜シキ村ナリ、家々何レモ鱈鮫ヲ干置キテ数百、是ヲ見ルモ愉快、此所ヨリ尾札部村迄陸路ナシ、舟路三里余ト云フ、下午舟ヲ浮ベ、一里斗リ行キ村アリ、古部村ト云フ。