松前から蝦夷地に行くには船路を利用する方が便利であり奥地へ行くにはほとんど船が利用されていた。
正徳五年(一七一五)『松前志摩守差出候書付』によれば、当時使用されていた船と航路・天候について次のように記している。
一、蝦夷地より島々への渡り、十四五里隔候所渡海舟は、タカセ船程の繩とぢの船にて渡海仕候
一、此方の船、蝦夷の地、東西往来浪高く風強く御座候節、度々破損仕候、潮などの構は無二御座一候、十一月より正月頃迄風悪しく、波荒く運遭難義御座候、二三月頃より九月頃迄は往来罷成申候。其内夏は海上静に御座候。
この時代の蝦夷地では、本州からの入港船には自然港が多く利用されていたが、その数は少なく特に奥地では数えるほどであった。このため松前と蝦夷地の場所を結ぶ船としては、資料に記されているように「繩とじ船」が使用されることが多かった。
繩綴船というのは二百石から五百石積みぐらいの大きさで、鉄釘を一切使用せず、つた繩で板をからみ、繩穴その他の小さな穴は山の苔、水草などで塞いだので非常に脆弱な船であった。しかし極めて軽く造られ蝦夷地の荒磯の場所で船を陸上げ仕易く、また長くかこう時には、繩を切り捨て船板を積み重ね置き、乗る時には繩でからんで船を組み立て、簡単に海上に浮かばせることが出来る船であった。
前項で記したように繩とじ船が使用されるのは主として蝦夷地であり、海岸線に沿って航海されていたが、天候に恵まれた時は、津軽海峡の横断さえ可能であった。『原始謾筆風土記』によれば、元文元年(一七三六)に「松前より三百石積繩緘船入津」(現在の大畑港)という記録が見られる。