後松前藩時代の椴法華における海上交通の状況はどのようなものであったろうか、天保年中(一八三〇-一八四四)と考えられる『東蝦夷地道中略記』によれば、
椴法華 箱館ゟ拾三里半
此所 稲荷社宮有り、此処ゟ尾札部迄海岸搔送り三里半
と記されている。椴法華を挾み込むように位置する、恵山と銚子、屛風(びょうぶ)岩の絶壁は容易に道路の開削を許さず、前幕府時代に引き続き椴法華・尾札部の間は搔送り船を利用しなければならなかった。また椴法華・根田内間には恵山越の踏み分け道ができていたが、この間もまた大部分の通行は、搔送り船が利用されていた。