すなわち安政二年(一八五五)の箱館の開港は貿易ではなく、燃料・水・食料の供給が主目的であったが、外国船が多数入港し何かと箱館の経済や文化に刺激を与え、更に安政六年(一八五八)には通商貿易が許され、なお一層の発展の道をたどることになった。
ペリーはその著書『ペリー提督日本遠征記』の中で、安政元年(一八五四)の箱館港の様子について次のように記している。
その入港し易いこととその安全さとに於て世界最良の港の一つたる美しい箱館湾は、日本諸島をば蝦夷と日本とに分ってゐる津軽海峡の北側に横たはり、又日本島の北東端尻屋崎と松前市との大體中間に横たはる。箱館湾は尻屋崎の西北二分の一西に當り、距離は約四十五哩で入口の幅は四哩、奥に湾入すること五哩である。
津軽海峡の航海は、遠征隊の士官達の調査した限りでは、安全にして便利であることが明かになったし、又箱館港への入港は、あらゆる点で便利であると云はれてゐる下田への入港と同様に容易である。下田と同様に箱館は外港と内港とを有し、外港はやや馬蹄の形をした湾によって形成されてゐる。そして下田に於けると同様にここに於ても危険な障害物を發見することに成功してブイで標識をつけた。その障害物と云ふのは、町の中央から約千二百碼(ヤード)突き出してゐる長い出州の浅瀬から成るものであった。内港は同湾中の南東入江で、完全に掩護されて居り、一定せる水深と勝れた錨地とをもってゐる。その廣さと、少しも風にあたらぬ安全さにおいては世界無比で、五乃至七尋の錨地と、帆船百艘を繫留する餘地とを有する。
ペリー来函の様子 亜墨利加一条写 嘉永7年(1854)
ペリー箱館入港の図 「ペリー遠征記」さし絵より