旅客の輸送

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 椴法華村と近村との海運はどのような様子であったろうか、江戸時代の末ごろに引き続き明治初期には、尾札部椴法華間は旅行者の大部分が海路により通行し、椴法華から尻岸内へは陸路及び海路の両方の通行方法が行われていたことが知られる。
 次に当時の「搔き送り船」に関する資料を記すことにする。
 
  ○尻岸内椴法華間の船賃、
   明治七年函館支庁一覧概表
   尻岸内村より椴法華村、海上三里、
    船一艘       七十二銭
    舟子一人       十八銭
  ○明治十年の「搔き送り船」
   開物類纂第二号      開拓使
   ○海馬捕獲の報文
   (椴法華村小谷金蔵がセイウチを捕獲した明治十年一月十日朝の部分より抜粋)
   本月十日午前七時頃当村ヨリ尾札部村迄船客大竹屋倉吉外女一人都合二人ヲ長二間程ノ磯船ニ乗セ二男亀太郎ト私両人ニテ漕行キ同日午前十時頃尾札部村ヘ着乗客一同上陸ス
  ○尾札部の「搔き送り船」
   駅路沿革誌函館支庁管内完(北海道蔵)
   ○尾札部
    舟渡場
   當駅ヨリ同郡椴法華村マテ陸路アリト雖トモ甚タ嶮ナリシヲ以テ海路ヲ取ルモノアリ。其里程英里六里。小舸(俗持符ト云フ)壱艘三人乗、渡銭壱里金拾八銭ツゝトシ、渡守該村坂井五兵衛ナルモノニシテ其渡舟製造費ハ渾テ村費トス。
  (この記事は、明治の初めより、十二、三年ころまでの内容である)
  ○明治十九年の「搔き送り船」
   北海道巡回紀行、巻之三(北海道蔵)
        北海道庁理事官 青江秀
   午食後舟ヲ請フテ尾札部ヲ発ス時ニ午後一時二十五分ナリ。舟ハ保津ト称スル小船ニシテ、舟子四人三人棹ヲ操リ一人交々休フ者ナリ(中略)午後五時椴法華村ニ達ス
(青江秀が、明治十九年五月十二日、尾札部から海路椴法華へ来村したときのものである)
 
 「搔き送り舟」の制度がいつまで続けられたか、村民の語るところによれば、大正の終りごろまでときどき行われたと言われている。次に参考として大正時代の例を記す。
 
 「大正七年一月十八日、函館の船客四名と椴法華村の漕ぎ手二名が乗った磯船(搔き送り舟)椴法華村より古部村へ向う途中、銚子岬で北西の強風のため転覆し全員死亡」