昭和二十年八月、終戦となり、復興物資の輸送・復員軍人・引揚者・食糧買出人等により、急激に輸送必要量が増大したにもかかわらず、トラック・バス・船等の極度の不足と、これらの燃料・部品等の補給が充分でなく運行回数は極く少なかった。
このため物資旅客の輸送は思うにまかせぬ状況であり、輸送力確保のため昭和二十一年九月三十日には、村長谷内久吉・漁業会長松本六太郎等により、道庁命令航路の開始方が陳情された。かくてこれは官側の認めるところとなり昭和二十一年十一月三日、北海道庁命令航路函館・臼尻線が、道南海運株式会社により運航されることになり、貨客用鋼鉄船五十屯・百馬力九ノットが就航することになった。
当時の新聞はこの時の様子を次のように記している。
昭和二十一年十二月二十五日北海道新聞
○下海岸定期航路
さらに運航船を増加
函館、江差、奥尻方面の定期航路をもつ函館道南海運會社では、このほど新航路として函館・戸井・尾札部・熊泊方面に下海岸定期航路を開設、十九日その第一船やよい丸が同航路の試験運航を試みたが好調なので、近く更に運航船を一隻増加する。
輸送物資は主として各村漁業會よりの出荷海産物で一船一萬貫輸送の豫定また地元民の要望もあって同時に旅客三十名の輸送も開始するが旅客運賃は、函館-戸井間十三圓廿銭、同-尾札部間二十二圓十銭、同-熊泊間二十四圓四十銭と決定した。
この船の椴法華等おける取扱店は一印川口でこの航路が再開されたはじめのころは、戦後の復興物資、水産物、食糧、旅客の輸送で賑わったが、その後二、三年で陸上交通が次第に回復してくるにつれて貨物旅客ともに減少し、やがて道南海運の定期船は椴法華港に入港しなくなった。
その後昭和二十五年ごろには、一部盛漁期や冬期間で山道が隆雪のため通行不能となった時などに、発動機船で古武井・函館方面へ荷物が輸送されるのみとなったのである。