八千代丸と共栄丸の衝突

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 明治四十一年八月二十七日、室蘭から函館へ向かった八千代丸百七十八屯と函館から室蘭へ向かった第三共栄丸七百四十四屯が鹿部村と木直村の中間地点で濃霧のため衝突する。当時の新聞はこの時の様子を次のように記している。
 
   明治四十一年八月三十一日 小樽新聞
  ○八千代丸沈沒 詳報
      △ 原因は濃霧
      △ 乘組員無事
   滊船八千代丸が去る二十七日夜半渡島茅部郡木直村沖合に於て滊船第三共榮丸と衝突沈沒したる惨報は昨紙を以て逸早く報導する所ありたるが今其の詳報を掲げんに
  △八千代丸 新潟縣北潟市八千代滊船會社所有滊船にして(総噸數百七十八噸)本月二十七日船客三名を乘船せしめ歸るのみにて室蘭港を出帆し函館に向け同日午後十一時三十分頃茅部郡鹿部村沖合五哩の處を航走し居りしが折しも風全く死して波さへ揚げず四邊寂莫(せきばく)の間に針路を惠山岬に向けつゝあり黒白もつかぬ漆黒の暗(やみ)にして○(欠字)々たる濃霧さへ深く立こめたれば甲板の上を歩むさへ呎尺(しせき)を辨ぜぬ程の有様なるより時々滊笛を鳴らしつゝ進行を續け同十一時三十五分頃鹿部村と木直村との中間約五浬ばかりの箇所に差懸れり、
  △第三共栄丸
   時に二十七日午後六時四十五分石炭積取の目的にて函舘港を出帆室蘭に向ひたる當區稲穂町畑十五番地佐藤商會所有滊船第三共榮丸(総噸數七百四十四噸)が同じく同航路線上を航走しつゝありたるも濃霧の為めに兩船具(とも)神ならぬ身の知る由もなく航進を繼續せしは危險と云ふも愚かなる次第と云ふべし
  △兩船の衝突
   斯(か)くて第三共榮丸が突然前面に當り綠燈の搖曳(ようえい)するを認めたれば船橋に居たる船長は危険を恐れて直ちに後退を命じたるも最早其の機を失せる事とて寸功なく遂に八千代丸の右舷中央部目蒐(めがし)けて凄(すさま)じき音響を發しつゝ衝突せり。
  △救助に盡力す
   玆(ここ)に於て共榮丸の船長渡邊銀平は不取敢(とりあへず)機關の停止を命じ一方船員全部を指揮して直ちに端艇を卸ろし八千代丸の船員船客の救助に向ひたるが、幸に風波もなく容易に船客三名と乘組員船長櫛田力太郎以下十四名を端艇に収容し本船に引上げたり。
  △八千代丸の沈沒
   時宛かも翌二十九日午前一時三分中腹を破ぶられたる八千代丸は滔(とう)々たる浸水を受けて遂に沈沒せり。
  △函館に歸航
   八千代丸の乗組人全部十七名を救助せる第三共榮丸は直ちに函館へ向け航行二十九日午前六時四十分入港せしが同船の損傷は僅かに左舷前部に經約三寸の穴を明けたるのみにて他には損害なしと云ふ。