寛政四年(一七九二)ラックスマンが通商の目的を果たすことなく日本を去った後、十年を経過してロシアでは、第一の目的として再度日本に通商を求めること、第二の目的としては北太平洋の探検をすること、の二つの目的を持って海軍大佐クルーゼン・シュテインを指揮官として遠征艦隊を編成した。
かくてこの艦隊に属するニコライ・レザノフが日本に対する特使に任命され、文化元年(一八〇四)九月かつてラックスマンが松前において与えられた『信牌』と国書の写しを持参し、通商を求め長崎に入港してきた。
レザノフ来航の目的を知った長崎奉行は、直ちにこれを江戸に伝えた。この報に接した江戸幕府は協議の結果、文化二年(一八〇五)通商は国禁であることを伝え、すみやかに退去することを求めた。レザノフは帰国の途についたが、しかし彼の部下であるフォストフの指揮する船は、武力に訴えても通商の道を開こうとしていた。