この事件のすぐ後の十八日、別の外国船が松前沖合から箱館沖合へと航行し、奉行は各藩に警備を厳重にすることを命じた。松前藩は福山城、津軽藩は弁天崎・白神岬の警備についていた。翌十九日には外国船箱館沖に出現し、市中警備のため南部・津軽藩兵、役人、その他百姓を十八箇所に配置し、奉行みずからその指揮をとるほどであった。
箱館市中は終夜かがり火がたかれ不眠不休で三昼夜の警備体制がとられた。更にこの日南部領大澗岬辺にも外国船が現われたとの報があり、箱館奉行所の役人はもとより、各藩の藩兵、箱館及び近村住民の緊張は大変なものであった。
一方ロシアの蝦夷地に対する襲撃の手はなおゆるめられることなく、同年五月二十九日、礼文島沖で松前の宣幸丸を襲い掠奪し後ち焼払う。六月二日、ノサップ沖にて松前藩禎祥丸を襲い兵器を奪う。利尻島では万春丸を襲い兵器その他を奪い、船及び倉庫を焼払うような有様であった。