このような緊張のところへ、天保二年七月二十五日、有珠場所のヲビルネップに外国船が渡来し、蝦夷地勤番と外国船の間で砲火を交えることになったのであるが、この事件について『通航一覧続巻之百四十八、異國部二』では次のように記している。
天保二辛夘年八月朔日松前志摩守御届
(前略)
ウス領之内ヲビルネップと申所ヘ橋船貳艘二而異國人十六人程上陸仕、水薪取候様子、尚又ウス番人共ゟモロラン江注進有之候、然ル處、同處ゟヲビルネップ迄ハ凡壹里半餘も有之、殊ニ海岸一圓見渡之所ニ而右橋船上陸仕候場所迄多人數海岸通押寄候而は異國人共必定迯去候儀も可有御座と心附、不意ニ打払候積ニ而高草中江人數一同分ケ入忍ひ候而仕寄候處、今拾二三丁ニ相成、高草茂無御座、難忍寄セ右ニ付人數一同押出候處、元船ゟ右橋船之方江合圖ニ而も仕候哉、上陸之異國人共急ニ橋船江乘移リ候様子ニ付迅速ニ押寄鐵砲數發打放候處、異國人共之内橋船ニ而倒れ候者も有之候得共、生死之義は聢と見留不申、右橋船は元船迄迯去候由、尤元船も陸近ク御座候ニ付、直様百目五拾目三十目筒數發打放し候處、異國船ゟ茂大筒數發打出し候間、追々人數共一同大小鐵砲打放し候内、百目玉二發元船江中リ候様ニ見請候、尤一發は艫之方江中リ候儀聢と見留不申候由、右故ニ候哉一向風も無之候處俄ニ橋船貳艘ニ而元船を引出し、未申之方江向〓出、申下刻頃は陸ゟ凡壹里半沖合〓去候ニ付、右人數共之内ヱトモ勤番所江引分ケ手配仕候由、且又異國人共上陸之場所見分仕候處、三尺廻リ位之立木貳本切倒有之、幷橋船江急ニ乗移候節脱捨候哉麁末之革沓壹足有之候趣、右場所江相詰候家來共ゟ去月廿五日亥中刻附、同廿七日申下刻附注進狀、同廿八日戍中刻附今朔日申下刻迄追々私居所江相達候ニ付、猶又ヱトモ場所江は増人數申付、今夜中出立為仕候積ニ御座候、其外最寄場所々江茂手配嚴重申付候。
一 東在箱館附六ヶ場所砂原領之内砂崎ゟ凡壹里程沖合ニ去月廿六日朝異國船相見得候ニ付、兼而鷲之木村ヘ備置候人數共砂原ヘ出張仕候處、同日申上刻頃砂崎ゟ凡三拾丁程沖合ヘ〓寄、橋船壹艘下し同所ゟ南濱手江向漕寄せ候ニ付、固人数一同右場所江相詰手配仕候内、橋船は元船之方に漕戻し候、其後申下刻頃未風ニ而亥子之方江〓候内及暮、翌廿七日未明ゟ寅風ニ而靄深く沖合不相分候ニ付、沼尻江人數相詰候由、尤辰下刻頃靄晴候處遙遠沖丑之方ニ當異國船壹艘相見候處、亦々靄相掛リ一向帆形相見不申、同廿八日沼尻ゟ□□丑之方ニ當リ凡四里程沖合に相見得候處追々陸近く〓寄り凡壹里半程ニ相成候處、丑寅ニ而右方角江〓戻し夫ゟ未上刻頃ニハ遙遠沖ニ〓去、同下刻ニ至リ帆形相見得不申候由、右場所に相詰候家來より追々注進之趣箱館江差置候家來共ゟ基度々申達候、右ハ前段申上候ウス領之内ヲヒルネップ沖江〓寄候異國船ニ而可有御座奉存候、右ニ付猶又箱館表ゟ大筒等差廻候、此上仕宣ニ寄同所詰合之家來共之内増人數差出候様申付置候、此段御届申上候、以上
八月朔日 松前志摩守
同日同斷
去月廿七日東蝦夷地ウス場所之内ヲビルネップ江異國人橋船ニ而上陸仕候ニ付、同所ウス番人左五右衛門ト申者右注進としてモロラン江罷越候、於途中異國人共取押候得共無難ニ遁候而注進仕候、共節異國人共同人江手眞似仕形等仕候始末左五右衛門申出候趣別紙之通ニ御座候間、則假口書相添此段御届申上候、 以上
八月朔日
松前志摩守
この記録は松前藩より幕府へ提出された文書で、詳しく事件の状況について記しているが、難解なので事件の概略を簡単に記してみるとおよそ次のようなことである。
天保二年七月二十七日昼ころ二艘の『橋船』(小型船、普段は本船に積んでいる)に約十六ほどの人が乗り込み、やがてヲビルネップの海岸へ上陸し、木を切り倒しているのを番人左五右衛門という者が発見して、モロランに在った会所に連絡してきた。この時偶然エトモにいた松前藩の牧田七郎右衛門を長とする一番隊が、密かに外国人に近づき不意に攻撃を仕かけようとした。しかしこれに気づいた異国人達は、あわてて橋船に乗り沖の元船へ避難しようとしており、これを見た牧田七郎右衛門の一番隊は百匁(三百七十グラム)・五十匁(約百八十グラム)・三十匁(約百十グラム)の数発の砲を発砲した。百匁砲が二発当ったように見えたが、その損害の程度はよくわからなかった。これに対し外国船も応戦し大砲を打ち出し約二時間ほどの戦闘の後、外国船は南西の方向陸より約一里半(六キロメートル)の沖合へ出ていった。