北海道において続繩文時代が終わると、本州から北上する日本文化の影響を受け、北海道独特の擦文式土器が誕生し、非常に日本文化的な特徴をもつ擦文文化が成立する。
この文化は農耕を主体とし、方形の竪穴住居にかまどを持ち、製鉄技術もあったらしく、鉄滓や鞴の羽口なども各地で発見されている。
この時期の遺跡としての確かな例はまだ南茅部町内においては確認されておらず、噴火湾沿岸においては、八雲町が南限であり、日本海岸においてはほぼ全域に分布するものであることから、当時の文化圏の特殊性が注目される。この文化はアイヌ文化の祖形と考えられ、その後、アイヌ民族は土器の代わりに、本州から移入された内耳土器や鉄鍋を使用するものと考えられている。
南茅部町において、明治期までにアイヌ民族が生活していたことは記録により明らかであるが、それも江戸時代中期以前に関しては不明であり、わずかにアイヌ墳墓がその存在を物語る。
現在のところ、アイヌ墳墓は数例の調査例があるが、ほとんどが男性墳墓であり、副葬品は刀、タシロ、マキリ、キセル、茶碗、木椀などが知られている。わずかに、子供の墓と推定されるものが一例あるが、小さな円形の掘り込みの中に、布袋に納めた豆状の実を副葬していたことが知られている。
擦文時代以後、近世までの歴史は記録もなく遺跡も少ないため暗黒時代とも呼ばれ、その実態はまだ解明されてはいないが、渡島半島における館跡の調査が進められている今日、それらを中心として、アイヌ文化の遺跡をさらに調査することによりいずれ解明されるものであろう。