明治元年、榎本武揚に率いられた幕府脱走軍は、東北諸藩の同志を合流して一〇月一九、二〇日、風雨の中、鷲ノ木(森町)に上陸した。
榎本軍の艦船が鷲ノ木沖(茅部郡森町)に投錨して蝦夷地に上陸をおこなった夜は、恵比須講の日だった。恵比須講は漁師が豊漁を祈願する祝いの日のことで、漁村鷲ノ木のどこの漁家でも、祝い酒、ご馳走で賑わっていたことだろう。この夜、鷲ノ木の沖は、タバ風(北西の風)が吹き荒れていたともいわれる。
「蝦夷之夢」には、「二十日、東エソの鷲木に投錨し、端舟(はしけ)を下し諸軍上陸をなすに、激浪巌を噛み烈風雪を捲いて寒気指を落し、端舟覆(くつがえ)って死者数人」と記されている。
大鳥圭介「南柯紀行」は、「十九日恵山を望み諸人欣然奮躍、本日午後鷲ノ木沖に着す。長鯨、大江船は先に着し居れり、自余の船は追々後れて到着せり、甲板上に出で四方を望むに、積雪山を埋め人家も玲瓏として実に銀世界の景也」と記す。
榎本軍の艦隻が前沖に来航し投錨したのをみとめた鷲ノ木駐在の箱館府の役人から箱館の府庁へあてて艦名・隻数・兵力などが急報されている。
徳川海軍、開陽、回天、蟠龍、長鯨、神速、大江、回春、鳳凰
右船之内壱艘、当村着三十人計揚陸致、明朝六ツ時五六百人斗揚陸候間、湯宿手配可致旨申聞、薪五百敷用立可申旨申聞候
十月廿日 鷲木村 荒 井 信五郎
このとき鷲ノ木村菊地屋和吉が、箱館の津内屋市兵衛あてに送った私信が森町史に記されている。
急使ヲ以テ申上候、一昨日徳川軍艦入艘致シ程ナク上陸、人数七八百人程御座候。私方ニモ宿当九十人ノ御賄仕候。会所百人哉六十人、鷲木村中何レモ同様ニ御座候。函館表へ罷リ越シ候由ニ御座候。如何様心配ニ御座候。若シ万一騒動ニ相成候ハゞ、市中迷惑ニ御座候哉ト御知ラセ申上候。当所一同混雑仕候。先ハ早々万緒可申述候。 頓首
鷲木村 菊地屋 和 吉
函館 津内屋市兵衛様