川汲の吉野堂と坂本龍馬の膳

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 明治維新から五〇年余を経て、世人はようやく箱館戦争を見直していた頃である。函館新聞は、郷土の吉野堂主人菊地吉太郎(嘉永三年一八五〇生)の体験を取材して後世に伝えている。
   (以下掲載記事全文)
 
   本道茅部尾札部村ニ川汲ト云ッテ温泉ノアル土地ニ吉野堂ト云フ看板ヲアゲタ菓子屋ガアル。土地ノ人ハ此ノ「吉野堂」に注意ヲ払ハヌケレド、偶内地カラ来タ人ハ小首ヲ捻ッテ、北海道ニ吉野堂トハ異ナ感ジガスル。或ヒハ大和ノ出身者カト聞クニ関係ハ国デナイ。菓子屋ノ主人公ハ、野村兵衛ト云ッテ青森県ノ津軽出身デ、吉野堂ト命名シタハ……。
   吉野ノ桜ヲ愛スルヨリ、営業ノ看板ニシタニ過ギナイガ、併テ川汲デハ名物ノ一人、先年徳島ノ儒者砂河澹庵翁ガ遠ク吉野堂ノ主人ニ書ヲ寄セタ末ニ、
    大義當年立戦場 忠誠至厚老加昌
    君猶吉野山桜樹 秀色令名無限香
    ト云フ七言絶句ノ詩ヲ寄セタトアルガ、吉野ノ桜ヲ愛スルコトハ知レテ居ル。ケレド反面ニ戦場ニ立ッタヤウナ事ヲウタッテアルノハ、草深イ川汲辺ノ菓子屋ノ主人公トシテ頗ル奇異ニテ、多少文字ヲ知ル旅商人ガ立寄ッタ時、ソノ話ヲ手ヅルニ「オ爺サンハ何處ノ戦争ニ出タンデス。」ト云ヘバ片頬ニ笑ミヲ浮カベナガラ、之レデモ戦(先)頭ニ起ッタカタミ(・・・)ハト、悪闘苦戦(悪戦苦闘)ヲ語ルモノハ全身数ケ所ノ刀痕ニテ、即詩ノ……大義當年トウタハレタ如ク、王政維新ノ函館戦争営時ハ吉野堂ノ主人公廿幾歳。
  大鳥軍ニ参加シタ旧津軽藩士デ、寺小屋時代ノ昔ニサカノボルト珍日大使、一戸将軍等トハ竹馬ノ友デ、今日デハ全ク隔世ノ感禁ズル能ハズト云ッテ呵々大笑シ……菓子屋主人公トナッテ居ルト。
  老人沈黙ヲ守ッテ居ルケレドモ村デハ名物トシ、村ノ公共事業ハ云フニ及バズ、日露戦役ニ恤兵ニ尽シ、去ル大正三年ノ本道ノ凶作ノ際如キハ、窮民救恤ノ為メニ興ッテ力アル人ニテ、坊サンモ教員モ吉野堂ノ主人公ニ対シイヅレモ敬意ヲ払ッテ居ルソウデ、村デ誇リニシテ居ル程誇ラヌガ、但シ「俺ガ一ツ誇リ度イノハ……。」ト同主人公常ニ訪客ニ示スモノガ一ツアッテ、夫レガ珍品デアル金蒔繪定紋附キノ一脚ノ膳。夫レハ誰アロウ維新ノ際二西郷南洲、勝海舟等ト倶ニ、東奔西走見事ニ尽シタ天下ノ志士、坂本龍馬ト云フ高潔ノ士が、日常用ヒタモノヲ故アッテ主人公が所持シテ居ルト。              (原文のまま)
                     (函館新聞 大正八・一二・四)
 
津軽藩の出身として箱館戦争に参戦した野村兵衛こと、のちの菊地吉太郎である。明治二年、一九歳であった。

菊地吉太郎