鰮漁は曳網漁業が多く、夏鰮を主としていたが、明治三五年ごろから秋鰮に主力がおかれるようになった。
北海道水産調査報告 巻之二「鰮漁業」(明治29年)市立函館図書館所蔵
臼尻村は、弁天島の前浜、横澗から西へ約二百間(約三六〇メートル)砂浜がつづき、その前沖が鰮曳網の最良の漁場とされていた。
熊泊(大船)や板木(安浦)は、岩礁が多く点在して曳網漁に適するところが少なく、明治三〇年ごろから小舌網を建てるようになった。
尾札部村は、明治三九年中の鰮漁の就業数、建網四か統、曳網一九か統である。
曳網は、八木川河口の東西につづく八木浜と稲荷浜が海岸屈指の鰮場所といわれた。恵比須浜や見日浜もあり、中網が多かった。
木直、川汲では小型の曳網がおこなわれ、鰮の建網も古部、木直にあったが、いずれも小規模のものであった。
夏鰮の漁期は七月初旬から一〇月初旬までで、秋鰮は一〇月中旬から一二月中旬までおこなわれた。
大網は漁夫が三〇人から三五人、中網は二五、六人、小網は一〇人ぐらいで操業した。ほかに尻戸廻(しどまわし)(尻戸間差(しどまさし))は五、六人で漁をした。
中網の漁船の構成は、積載船として胴船(どうぶね)一艘、沖揚げの持符船二艘、そして魚見(うおみ)にあたる磯船一艘からなっている。
尾札部村の鰮漁場は、すべて地元の漁夫で操業される歩方制で、その配分は漁獲高の五分五分である。
網元は、漁具漁船など漁業資材の一切と魚粕製造の薪材を負担し、歩方の漁夫は、米味噌を自弁して漁労などの労働に従事する。
鰮漁場の精算は、漁期が終わり冬季間に魚粕を干しあげ、函館へ船積みして送り、販売されて海産商の仕切りがきてから精算配当される。
臼尻村も地元の漁夫を中心とする歩方制であるが、配分は四分六分である。
網元は、漁具漁船の一切と薪材ならびに税金をふくめて漁獲の四分を得、歩方の漁夫は、米味噌を自弁して労働し六分を配分する。
臼尻村には、漁夫を南部・津軽地方から雇入れる漁場もあった。
網元は、二、三の例をのぞいて、おおかた函館の海産商の仕込みを受けていた。
明治三九年は近年稀な豊漁で、一か統平均約八、九〇石の水揚げがあり、上は百石余り、下は五、六〇石を得た。夏鰮は、主に素干や煮干として村に出張してくる函館の仲買人に売渡す。秋鰮は、搾粕(しめかす)にして、冬季間玉粕を砕き、莚で粕干しをして函館の海産商へ船送した。