[大正・昭和(戦前)のイカ釣漁]

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鯣加工 イカ掛け/尾札部村・昭和15年 横須賀 上川原久敏提供 尾札部 葛西英司協力

 磯船から持符船・川崎船によるイカ釣りは、大正一〇年前後にチャッカ船(着火船)という動力が、小型の船に取付けられる。
漁火は、カンテラや松明からガス灯の普及によって、夜釣りが容易になる。
 鯣の価格もよく、漁家の収入も増して次第にイカ漁は昆布と並んで漁家の年間の収入を支えるようになる。
 夏の昆布採りの頃から、初冬までのイカ釣りの漁期が定着していく。補助船と呼ばれる小型発動機船の普及は、鱈釣り漁業とともに前沖のイカ釣り漁業を一層盛んにした。
 イカ漁は、そのはじめから磯舟の夜釣りの漁である。夏の末から初冬にかけ、徹夜で星を仰ぎながら波に揺られてツノをシャクル(引き上げる)。その繰り返しの深夜労働である。手もこわばり、指も割れることもあった。
 鱈漁や昆布漁と同じように、イカ漁もまた家族全員の稼働を頼りの干しあげ作業である。イカを釣って帰ると、主婦達が裂いて鯣加工が始まる。子供達の手でイカ掛け、イカのし、イカ干し、そして鯣の結束。二〇枚一把に結束して雑倉(ぞうぐら)や居間にも積み上げた。
 漁業組合へ出荷するものもあるが、多くは地元の仲買人により集められる。また、直接、函館の海産商(委託屋)へ船便で送った。
 売り値も売る時期も海産商任せの家が多かった。電話やラジオが普及してからは、相場をみて販売の時期を連絡するようになった。
 渡島支庁管内水産概要(昭和九年)によれば、昭和八年当時、イカ釣り漁業の大半は発動機船による操業になりつつあった。
  尾札部村  発動機船約七〇隻  ほかに磯船・中舟約一五〇隻
  臼尻村   発動機船  四〇隻
 両村ともに発動機船一隻に八、九人から一四、五人乗りであった。乗り組みの漁夫はほとんど地元の漁業者で、釣り漁獲高の三割~三割五分を船歩(ふなぶ)といって、鮮魚(生イカ)で船主に差し出す。いわゆる釣り子の手取り七割~六割五分を自家へ運んでスルメに加工した。
 八月、昆布漁がまだ終わらないうちにイカ釣り漁が始まり、一二月の中頃まで操業する。
 定置漁業のイカ漁獲が水産加工業者に鮮魚で生売りされたが、一本釣りの漁家は、みな鯣に自家加工した。
 鯣は、二〇枚(尾)ずつ結束したものを、二四貫九〇kg(正味一五〇斤)とし、立莚で一梱として包装する。
秋の初めの製品と後獲(ごとり)とでは重量も異なるが、七五把(一、五〇〇枚)~八〇把(一、六〇〇枚)で一梱として出荷した。
 もちろん、一把二把のバラ売りも可能であった。
 
   尾札部村の鯣生産高
              貫         円
大正一三年    九二、三三九  二六七、七八三  尾札部村勢要覧
  一四    五四〇、〇九〇  七三四、五二二
  一五     三六、八七五   七三、七五〇
昭和 二年   一五四、〇六〇  二四六、四九六
   三     三四、四一五   六八、一四一
   四    一一三、四三三  二五二、九五六
  (臼尻村   一五、五八八   四三、六一三)  渡島「水産概要」
   五     八四、〇八九  一五一、三六八
  (臼尻村   五〇、七四二   九二、四四〇)
 昭和六年    五一、八六四   七七、七九六
  (臼尻村   四一、二五〇   六二、五三五)
   七     七九、七五七  一〇三、六八四
  (臼尻村   四二、一八〇   六五、七九八)
   八     九六、八六九  一五四、九九〇
  (臼尻村   二七、五〇〇   四六、八九一)
   九     四〇、八四九   七三、五二八
  一〇      二、〇〇〇    四、〇〇〇
  一一     一五、六三八   三一、二七六
  一二     三二、九五九   九五、五八一
  一三    一五七、九二七  四七三、七八一