臼尻より板木を分かち、二郡二〇区制が茅部山越水産組合で決議されたという事態に至って臼尻は危機感を募らせた。二本柳庄三郎、小川幸一郎、篠田順の三氏を亀田支庁に赴かせた。龍岡支庁長に面会した三代表は、永年の漁業慣習を破って板木を臼尻より分かつことの不当性を訴え、両郡水産会の決議を旧に復することを陳情した。また、水産組合吉田組長に対して、「臼尻・板木の離れるべからざる事を開申」(篠田順「臼尻部落誌」)して、その理由を縷々述べて建議書を提出した。しかし、一度決議された事態はひるがえることなく、建議書の提出はかえって臼尻を孤立させる情況すら生じた。臼尻の漁民は、板木に対して不穏な動きさえみえはじめた。
この年、臼尻漁業組合は、熊谷喜三郎頭取が亡くなり副頭取東出源蔵が頭取(注)に推された。(注・正式名称は水産組合副組長となる)あくまでも従来の海区を主張する臼尻部落の漁業者は、実力行使をも辞さない勢いのまま昆布解禁の日を迎えた。板木・臼尻の漁船が、冷水下の境界に集まって、遂に海上での腕力沙汰の騒動を惹起してしまった。明治三五年七月二四日のことであった。開村以来、同系の親族関係にあった両地区の骨肉相食む事態を憂慮して、地元の大野警察臼尻分署長心得松山謙省は、板木・臼尻の重立を説諭し、和解の途を講ずるため大野警察署長、亀田支庁長に現地協議方を進言したという。支庁は即刻、加藤庁属を臼尻村に派遣した。茅部山越水産組合から吉田組長が松浦書記、原田評議員を随行して来村、板木・臼尻の両地区の重立に対し「百方説諭の労をとり」(篠田順「臼尻部落誌」)すすめた。水産組合と支庁の仲裁案は、字界より若干板木区内に寄る赤助川をもって界として説得した。臼尻側はあくまで分区に反対し、もし官庁において分区の必要を認めるのであれば、当然字界をもってすべきだと反論した。ここに臼尻分署長心得松山謙省、戸長らの熱意と懇請により、漸く臼尻、板木の代表も時勢の流れと相互の心情を察するところとなり、字赤助川を界と定めることとしてさしもの破局もその収拾をみることができた。即時、「昆布等採収境界標」なる木標を現地に建設した。以後、この字界は変わることがなく現在に至っている。
この紛争のなかで最高の責任的立場にあった臼尻漁業組合頭取東出源蔵は、その生家が板木にあり、実弟が板木の指導者蛯谷金太郎の養子となっていた。この一件解決後の明治三七年、東出源蔵は茅部山越水産組合の議員を辞し、当時臼尻漁業組合の書記をしていた前戸長篠田順が議員となった。翌明治三八年、源蔵は頭取の役職も辞して後任魚住要作がその任に就く。