昭和二八年の農業調査によると
尾札部村 作付面積 一四三町八反 六三一戸
臼尻村 作付面積 一二五町 四八〇戸
計 二六八町八反
このうち馬鈴薯の作付面積とその実収高は
尾札部村 八二町九反 一三二、六四〇貫
臼尻村 六四町九反三畝 一三〇、〇〇〇貫
計 一四七町八反三畝 二六二、六四〇貫
(表)農業委員
(表)大正期 臼尻村の主要農産物 (臼尻村郷土誌)
昭和三〇年前後を境に、イカ漁が減少しはじめ凶漁対策として、漁家の副業が真剣に指導され取り組まれるようになった。従来の自給自足型の家庭菜園から、換金目的の農業への転換がはかられ、家畜の飼育やイチゴ・アスパラの栽培もとりいれられるようになった。
作付面積も僅かながら増え、昭和三五年には南茅部町の作付面積は三一九町(ha)に達した。
しかし、昭和三八年には二八二町(ha)に減少しはじめた。漁家の多くの主婦達が、水産加工場に周年就労するようになる昭和四二年には、作付面積は二〇〇町(ha)を割り一七四(ha)となってしまった。以後、不作付面積の方が多くなっていき、昭和四九年には作付面積は一〇〇町(ha)を割った。移動スーパー車が街を行き、年中居ながらにして野菜を求めることができる時代になった。かつて、あらゆる土地を利用して開墾し耕作した郷土の畑作も、加速度を示して全町の作付面積は、昭和五七年三〇町(ha)となってしまった。肥沃な畑として百年余、代々耕し続けてきた農地が、地目としての農地は現存するが、僅かに干場や宅地に利用されるものがあるだけで、ほとんど雑草のはびこるままに放置されるようになった。明治一九年、尾札部・臼尻・熊泊(大船)三か村の畑地四六町歩を下回わっている。