乾繭所

121 ~ 123 / 1034ページ
昭和七年九月三〇日、字熊九〇番地(字大船二三四)に乾繭所(かんけんじょ)(三二・七五坪)を事業費一、九六五円で新築した。村の人たちは通称「かんきんじょ」と呼んだ。
 昭和一〇年度臼尻村勢要覧には「殺蛹乾繭所」と記されている。
 臼尻村内はもちろん、尾札部村、鹿部村から熊乾繭所に繭が集荷された。乾繭所の作業は、熊(大船)の婦人や女子青年等二〇名余りが、豊浦から講師を招いて技術指導をうけ作業に従事した。このとき、川汲尾札部・木直からも女子青年達が乾繭所に通い作業に当たっている。
 鹿部・臼尻尾札部三ケ村により養蚕実行組合聨合会が組織され、養蚕の指導や事務連絡に当たっている。
 繭の荷受には臼尻村は運上書記、鹿部村から棟方書記、尾札部村後木書記らが立会して看貫(かんかん)役をつとめた。
 のち、山野の桑の木が少なくなったので、村々の養蚕実行組合名儀で山林の払下げをうけ、桑の苗を植えて育成をはかった。
 熊(大船)では、一戸当たりの収繭量は四、五〇貫ぐらい生産されたというから、相当の規模の飼育があったと思われるが、この取扱高など正確な記録に乏しい。
 尾札部村の養蚕の実績は、古いもので大正二年生産額四円という記録がみられる。昭和八年の尾札部村勢要覧から掃立数量・収繭量と生産額を表にまとめた。臼尻・熊・鹿部についても若干の資料がある。三か村とも昭和八、九、一〇年を最高に、次第に繭の生産高は減少していくが、昭和一五、六年ごろまでは副業としての養蚕が存続していた。
 昆布礁の復旧が成り、鰛漁イカ釣り漁が盛んになると、漁家では副業の蚕の飼育に手が回らず、次第に減産の一途をたどり、太平洋戦争の開戦の頃には、漁家から養蚕の出荷は立ち消えとなり、乾繭所も閉鎖されてしまった。
 乾繭所の建物は、戦時中大船地区の集会場に使われ、戦後は一時、外地からの引揚者が入居したこともあるが、のちに大船小学校の近くに移して教員住宅に改築された。
 乾繭所の跡地には、〓中村家が新築された。

村乾繭所開所式 村上元三郎提供


乾繭所の役職者 村上元三郎提供


表彰状 同