【資料四】 古部特別集配地区

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 古部地区への郵便業務は、特別集配地区として隣村椴法華郵便局(亀田郡)から一一キロメートルの山道を隔日集配されていた。
 椴法華郵便局の配達夫であった最上谷養吉(明治三五年生)は、古部地区の専門の配達夫として大正一〇年から昭和三四年までの永い年月、一一キロメートルの山道を往復して古部地区の郵便配達の業務を遂行した人である。最上谷翁の懐古談から古部往復の道程をたどってゆく。椴法華郵便局を出て浜通りを行き、矢尻川のところで山道に向う。丸木橋を渡って山道にかかる。
 沢沿いに鉄鉱山から硫黄鉱山を経て、いくつも山沢を越えて古部の手前の〓山川甚太郎家のところへ坂道をおりた。
 昭和四一年、翁は六二歳で退職した。このとし六月三〇日、郵政大臣より永年勤続による感謝状をおくられる。
 昭和四二年四月二九日、僻地集配の永年勤続の功により勲七等青色桐葉章叙勲の栄に浴した。老夫婦そろって上京し授彰の式に参列した。帰郷後椴法華村挙げてその名誉を祝し、椴法華村では祝賀会を開催した。
 永い古部通いの年月の往復のなかで、山の中で一度も熊には出会わなかったが、熊の危険は始終あった。いつも熊除(よ)けのラッパを持って山道の曲り角や、遠く見わたせるところなど、要所々々でラッパを吹いて用心して通った。
 一一キロメートルの山道を片道二時間、往復四時間、古部で配達する時間を入れると、集配所要時間は六時間におよび、一日仕事であった。
 旅の人がこの山道を一人歩きするのは困難で危険であったので、古部へいく行商人(たべと)や函館の問屋の出張員などの道案内を頼まれることが多かった。
 冬道は大変で、椴法華が一尺雪が積ると、山中は二尺もある。大雪で難儀したときは、古部の青年団が途中まで迎えに来てくれていることも度々あった。
 帰りは椴法華の青年達が心配して途中まで迎えにきてくれたりした。どちらかというと、夏より冬の方が気楽だったという。熊の危険がないからだと。
 昔は靴がなかったので足袋(たび)に草鞋(わらじ)だった。郷里の秋田から藁を送ってもらって、つまごや草鞋をつくり、それを履いて歩いた。最上谷養吉は、昭和一八年四月七日、渡島管内藁工品展で一等賞をもらった。
 いやだったのは、夜中の別使電報の配達であったという。雨風のときなどは職務とはいえ大儀だった。今も昔も電報は死に生きの心配事が多く、どうしても急いで行かなければならない。古部へ行ってようやく帰るとまた電報がきていて、折り返し同じ道を古部へ急いだことが何度もあった。昭和一六年、古部郵便局に電話がついて電報配達はなくなったが、郵便配達はつづいていた。
 小包などは背負って行く。小包が余り多いときは局長の特別許可をもらって、定期の蒸気船に頼んで古部に運んでもらったこともあった。
 古部に呉服を商う店が一軒しかなかったので、永い間通って村の人達と顔なじみになり、日用品の買い物などを頼まれることが多かった。公用中の私事は職務上出来ないことだが、局長も内々にしてくれていた。公務の外に、別の手帳をもっていて、個人的に頼まれた用事を書きつけて届けた。
 配達夫最上谷養吉は、人柄もやさしかったので古部の人たちから慕われた。
 古部への集配が尾札部郵便局に変更されたのは昭和三四年であった。昭和三五年一月五日、古部の町内会から最上谷養吉に感謝状が贈られた。椴法華郵便局を退職したとき、昭和四二年一月二二日、古部町内会からあらためてまた二枚目の感謝状が贈られた。
 銚子の澗に椴法華の人が持っていた番屋が建っていて、秋になると越前(福井)から川崎船が一〇艘も入った。イカ釣りや鱈釣りで一艘に一〇人乗って飯炊きを連れてきたから、一〇〇人以上の人が十一月末まで住んでいたので郵便も多かった。
 銚子の澗へ配達にいくときは、今の銚子トンネルの椴法華側の入口のところから山道を登って、まっすぐ銚子の澗におりた。帰りはまた同じ道をのぼって、そのまま沢づたいに古部の山道に出た。
 最上谷養吉の長男昭一は椴法華郵便局に勤務した。孫も横浜の方で郵便局につとめている。まさに最上谷家は、親子孫三代の郵便局一家である。
 晩年、白内障で両眼を手術した。
 退職して土地も買い家も建て、墓もつくった。
 退職するとすぐ死ぬひとが多いというので、山に杉の木を植えた。それを見回りにいくのが仕事であり楽しみにしている、と最上谷翁は語っていた。

最上谷養吉 昭和24年ごろ


昭和26年椴法華郵便局配達区域図 (昭和26年椴法華郵便局業務概要表添付資料)