駒ヶ岳爆発災害誌によって昭和四年の爆発の状況を記すと、はじめは、六月一七日の未明、駒ヶ岳の山麓にある鹿部村に鳴動があり、約三分間続いた。
前日から曇天であったが、とりたてて山も村も変わった兆候はなかったという。山麓の鹿部村では、いつものように朝早く沖に漁船を出した。午前五時三〇分過ぎ、掛澗方面の住民は駒ヶ岳に異様な噴煙のあるのを認めたが、よもや大爆発がくるとは誰も気づかなかった。
午前八時ごろ大沼方面の住民が微かな爆発音を聞いた。午前九時半ごろ、森町で駒ヶ岳から羊毛状のもくもくと噴煙のあがるのが見え、山麓周辺の住民は漸く不安の予感に襲われはじめる。
午前一一時ごろ、ノンノン、ノンノンという天地をゆるがすような一大鳴動とともに駒ヶ岳は大爆発を起こした。「駒ケ岳が抜けた」すぐ山麓にあった鹿部村字小川、字本別は鹿部市街地とともに、この大爆発の降灰降石の直撃をうけた。
視界は夕暮れのようにくらくなり、家の中にいて灯(あかり)が必要になるくらいだった。忽ちにして数寸に達し、雷鳴を伴って凄惨な光景を展開した。野も山も道も火山灰で埋められていった。上空の風にのって軽石の大部分は東の海上に降下した。沖合は海上に浮上した大量の降灰と視界がきかなくなり、一時、船舶航行も不能になった。出漁中の漁船はあわてて浜に帰る。
噴出物の飛行は海上三〇〇キロメートル内外に及んだ。汽船シティ・オブ・ビクトリア号は北緯四一度四四分、東経一四四度二分を東へ航海中、午後二時四五分、軽石末のストーム本船を通過せりという無線報告あり(中央気象台六月分気象要覧)、このときのビクトリア号の位置は、えりも岬東南沖合で、駒ヶ岳よりは東南東約二八五キロメートルの地点であった。
正午ごろから山頂の噴煙は一層猛烈な勢いをみせ、山容の東半分は濛々と黒煙を天に吐きつづけ、西半分は黒鼠色の羊毛状の噴煙が重なり渦巻いた。
午後になると降灰降石がますます激しさを増して、空は黒い雲におおわれ、夕暮れのようになり、稲妻が走ると雷が鳴り一層人々を恐怖にさらしていく。落下した降石は、高温で手を触れることができない程だった。地上に墜ちると脆く砕けた。
ついに剣ヶ峰と馬ノ背の中間部から石塊流が溢れだし、沿岸東側一帯に降灰降石が烈しく続き、真下の鹿部市街では、午後五時には降石の堆積が二尺余りに達した。幾分細かな礫となっていったが、火山灰と火山石は激しく降り続き、六時、七時ごろには、赤熱の降石を交えて落下し、頭大の火熱石塊が無数に飛び散ってくる。
夜になると山頂に火柱が屹立して、真っ赤な閃光が縦横にはしる。このときには山麓の森林や草原は焼け、麓の人家は落石で倒壊していった。
爆発とその降灰、降石の時間的経過をみれば、駒ヶ岳東南東一一・四キロメートルの鹿部村市街地は、爆発二〇分後に降石がはじまった。二五・六キロメートル離れた臼尻村市街地には、二時間一〇分後の正午すぎに降石がはじまる。三三・六キロメートルの尾札部村市街地には、二時間四〇分後の午後一時二〇分ごろに降石をもたらしている。
はるか遠隔の四六・五キロメートル離れた椴法華村と、四八キロメートルの尻岸内村古武井で降石をみたのは三時間一〇分後の午後一時三分であったという。