絵図 浜松城と城下の絵図
【 解説 】1 浜松城絵図
2 浜松城下絵図
3 浜松城下のうつりかわり
解説「浜松城絵図と城下絵図」
佐野一夫(元浜松市文化財課長)
2.浜松城下絵図
6点を登載している。このうち作成年代がほぼ明らかな絵図は、元禄期に作成された「④青山家御家中配列図」、井上藩政期の作成と位置づけられる「⑤遠州浜松城下絵図」、「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」の3点である。
他の3点は、いずれも昭和20年代から30年代にかけて中根櫻が模写した絵図である。中根櫻は当時、元目町在住で、本アーカイブ「浜松の明治以降の資料」に登載の「浜松市全図」(大正7年 1918)を編さんした人物である。模写図のうち「⑨浜松御城下絵図略図」は宝暦年間の制作と推定されているが、本図は昭和25年(1950)10月に図写したものである。「⑦遠江州敷智郡浜松御城下略絵図」は嘉永3年(1850)8月12日制作とされる図であるが、本図は昭和23年(1948)3月10日にそれを図写したものである。「⑧浜松御城下絵図」は、元禄年間前後の状況を描いていると推測される絵図の写しと思われる。
以下、それぞれの絵図を概観する。
④青山家御家中配列図
軸装、縦327cm×横306cm。浜松市博物館蔵。家臣団の屋敷を把握するために、浜松藩主青山家氏によって元禄年間(17世紀後半)に作成された絵図である。武家屋敷の配置・屋敷の大きさ・家臣名が詳細に記されている。浜松城の各曲輪の配置や番所、寺社や町屋も描かれ、元禄期の浜松城と浜松城下の様子を示す最重要資料である。
図右下の凡例では、御家中(家臣の屋敷)(橙)、寺社(桃)、町屋(水色)、芝土手(黄緑)、道筋(赤)、山林(緑)、水堀(青)、から堀(茶)が色分けされている。なお道筋は赤線で示されているが、浜松城下については道路、浜松城内については通路を示しているものと思われる。
【浜松城】
石垣、芝土手(土居)、堀(水堀、空堀)の配置、門、多聞等の曲輪外郭の施設は描かれるが、御殿等の建造物は描かれていない点は、①遠州浜松城絵図(以下、①図)とほぼ同様である。ただし細部では①図と異なる点も、いくつか見られる。例えば、①図で出丸(現在の浜松市立中央図書館敷地)の東の榎門への通路には土塀と棟門が描かれているが、本図では冠木門と柵が表示されている。また二ノ丸の北の御城米藏を見ると、①図では南面が土塀と棟門であるのに対し、本図では冠木門と柵が表示されている。
他にも相違点はあるが、ここでは天守曲輪と古城に限って、その特徴を概観する。三の丸については、武家屋敷の項でふれる。
天守曲輪外周の外側には石垣・土塀が、内側には石垣が描かれている。曲輪東南隅には、かつて櫓が存在したことを示すような石垣配置や階段が見られる。曲輪の東には天守門、西側には埋門が描かれている。曲輪内部には天守台・付櫓・八幡台の石垣の配列が描かれるのみで、天守は描かれていない。天守は、すでに失われていたことがわかる。石垣の配列は、①図と比べて、より正確・詳細に描かれている。
古城(旧引馬城)区域には楕円形の4つの曲輪が残されている。西北曲輪(現在は東照宮が鎮座)は「御蔵屋敷」で南に木戸がある。周囲は芝土手・山林で囲まれるが。その西半部には柵が設けられ、水堀も認められる。東北曲輪は「御扶持方蔵」と記され、西南に木戸があり、周囲は土手で囲まれ、北と東は水堀、南は空堀が巡る。西南曲輪は屋敷地である。東南曲輪は「古御城」と記され、使用されていないようである。この4つの曲輪の間を南北に走る堀は通路として利用されている(赤線で表示)。
【番所】
東海道筋に3ヶ所、本坂通筋に1ヶ所の番所がある。浜松宿の東端の番所(東番所)は東海道馬込橋のやや西にある。番所の東には木戸や柵を設けている。大手門から東海道を南下した宿場の中程に御番所の区画が表示されている。中番所であり、現在の旅籠町交差点東北付近にあった。浜松宿の西のはずれ、成子坂にあった番所(西番所)の南側に木戸と柵が描かれる。大手門から南進した東海道は成子で西に折れて番所に入り、番所で南に折れ、木戸を出たところで、さらに折れて西へ向かっている。番所建物は、四角い区画で示されている。本坂通の名残番所の周囲に土手を設け、その上に柵を巡らす。規模は4間四方である。北側に木戸があり、本坂通は番所へ東から入って北へ抜ける。1棟の建物が描かれている。
【武家屋敷(橙)】
「御家中配列図」という表題が示す通り、浜松城及び城下の7地区に配された武家屋敷536戸の区画が表示され、人名や屋敷規模が記載されている。以下、各地区ごとに概観する(地区設定は『浜松市史通史編1』に準拠する。同書では武家屋敷総数541戸とあり、各地区の戸数内訳も記載されるが、今回、数え直したため、以下にあげる軒数は同書とは異なる)。
a.城内地域
11軒(明屋敷も含む)。浜松城内三の丸及び三の丸北にある上級武士の広大な屋敷である。最も広いのは大手門を入った右側の田塩蔵人の屋敷地で、間口52間、奥行き60軒で、3,120坪である。次いで広いのは蜂須加新右衛門の屋敷地で、2,248坪である。田塩蔵人の名は元禄8年(1695)年の、蜂須加新右衛門の名は元禄12年(1699)年の有玉下村年貢割付状(高林家文書)にも見える。これらの年代は、本絵図の制作年代に近いととらえられよう。
b.高町地域
82軒。上級武士の屋敷が本坂通沿いに分布する(57軒)。それぞれの屋敷地には所有者の氏名が記されている。規模の内訳は、320~ 500坪が14軒、501~ 700が22軒、701~1,000坪が13軒、1,001坪以上が8軒である。最も広いのは吉原庄左衛門の屋敷地で、2750坪である。また1,800坪の屋敷地を持つ吉原六左衛門の名は、元禄13年(1700)年の有玉下村年貢割付状に見える。
これら上級家臣の屋敷地の南、神明神社から鴨江寺へ向かう道筋には20軒ほどの中間屋敷が並び、中間小頭・長柄小頭の屋敷は菩提寺の北側にある。中間屋敷の規模は100坪から200坪程度で、人名は記載されない。中間小頭・長柄小頭の屋敷は人名が記載され、200坪程度の規模である。
c.元目地域
46軒で、古城の東や北に分布する。東側では2間~2間半(3.6~4.5m)幅の秋葉道の両側に屋敷が並ぶ。100坪から200坪程度の比較的、小規模な屋敷である。
d.名残(なぐり)地域
浜松城の西北、本坂通沿いの名残番所北側に配置される足軽組屋敷である。239軒からなり、武家屋敷総数の43%を占める。足軽組屋敷は小頭1人と足軽20人で1組とするのが基本で、組ごとに一つの矢場を持つ。名残には、こうした組が12組配置されていた。組の名は、高木権大夫組、磯谷政右衛門組などと記載されている。個々の屋敷の人名は記載されていないが、小頭の屋敷と足軽の屋敷の区分は明示されている。屋敷の規模は「御足軽小頭屋敷一軒に付百五坪宛之割、並御足軽屋敷一軒に付七拾五坪宛之割」と記載されている。足軽組屋敷の右上の正(松)林寺は、現在の善正寺にあたる。また名残木戸口の辻番の屋敷もみられる。
例として、西北隅(図の左上)の高木権大夫組をみてみよう。「小頭 小野田武右衛門」と小頭の人名は記載されるが、足軽の人名は未記載である。屋敷の間口(奥行は未記載)は、小頭が9間1尺、足軽は5間~11間(奥行は各々異なる)であり、矢場もある。なお組頭である高木権大夫の屋敷は、名残から離れた高町地域の本坂通沿いにあり、間口21間、奥行29間で、609坪の規模である。
e.白山下・愛宕下地域
大手門から東海道を南下した地域で、現在の利町から元魚町付近である。19軒で、300坪から1,000坪の比較的大きな敷地である。1,000坪を超える屋敷も3軒あり、1,458坪が最も広い。
f.後道地域
現在の千歳町付近である。87軒を数える。名残地域と同様の足軽組屋敷である。屋敷地は、ほぼ東、中、西の3列に並ぶ。中列や西列には町組という組屋敷(10軒1組)が2組(浦山与右衛門支配、黒沢岡右衛門支配)、20軒1組の組屋敷が2組(彦坂平四郎組、我妻治部右衛門組)配置される。いずれも居住者個々の人名は記載されない。屋敷地の広さは、65~80坪程度である。なお組頭である浦山与右衛門の屋敷(1,003坪)は高町地域に、黒沢岡右衛門の屋敷(984坪)は浜松城内三の丸に、我妻治部右衛門の屋敷(537坪)は早馬地域にある(彦坂平四郎の屋敷は不明)。東列には300~500坪程度の屋敷が並ぶ。
さらに番所役人の屋敷(成子番所定番者4軒、中番所定番者2軒)や、様々な役人(道手代、塩手代、筆頭、宗旨改手代、山手代、御旗之者職人)の屋敷もあった。このほか籠屋(15間四方)・籠番の屋敷、十七間矢場もあった。
g.早馬地域
52軒。浜松城の東、旧引馬宿にあたる区域、現在の浜松八幡宮から遠江分器稲荷にかけての一帯である。200坪程から1,000坪を超える規模の武家屋敷が並ぶ。500坪以下の屋敷が半数を占める。新川西岸には下屋敷や樹木屋敷が描かれる。
【町屋(青)】
絵図の目的が家臣団屋敷の把握にあるため町屋の記載は簡略である。人名や間口・奥行きは記載されず、「町屋」とのみ記載される。その分布をみると、東海道往還筋や大手門南側に連なっているのがわかる。「糀屋記録」(『浜松市史史料編1』)によれば、本絵図作成年代と近い元禄16年(1703)の町屋の軒数は1,386軒である。
【寺社(桃)】
神社では、五社神社、諏訪神社の前面の切り石積石垣(五社神社の石垣は現存)、諏訪神社の社殿西南の石垣(はまホール西南の石垣か)が描かれているのが目を引く。他に若宮八幡、松尾明神、白山二諦坊、愛宕山、金山宮、八王子宮、神明の鳥居や社殿も描かれる。
寺院では鴨江寺が詳細に描かれる。観音(本堂)、御影堂(大師堂か)、弁財天、天王、えんま堂、手向けの水と石塔、池、五知如来、仁王門等が描かれる。他の寺院は、四角の中に名前のみが記されている例が多い。明治維新の廃仏毀釈などによって、廃寺となった寺院もみられる。
⑤遠州浜松城下絵図
折図、縦81cm×横108cm、浜松市博物館蔵、井上藩政期の制作とみられる絵図である。浜松城内外の井上家の家臣屋敷の配置・規模を示す。西を上として描かれているが、地形は必ずしも正確ではない。道・土手・堀川・神社寺院に色分けされている。
【浜松城】
石垣は、天守曲輪・本丸、および二の丸の一部に認められる。他は土手の上に土塀や柵をめぐらしている。門、木戸については名称を記す。天守門では「二階付」と注記される。天守曲輪には天守門、埋門と天守台のみが描かれる。将軍上洛時宿泊用の本丸御殿は描かれていないが、藩庁や藩主の居所である二の丸御殿は描かれている。古城(旧引馬城)の4つの曲輪を見ると、北の2つは蔵、東南は樹木屋敷、西南は家臣(細野三太左衛門)の屋敷となっている。本丸や二の丸北側の低地には二条の空堀が描かれ、その北側には柵列が古城にいたるまで続く。柵列は三の丸・大手門南の堀の外側にも巡らされている(④安政浜松城絵図と同様)。城内の各曲輪等の面積(坪)や石垣、塀、堀等の長さを記す点も、本絵図の特徴である。
【番所】
東、西、名残番所は「番所」と記され、それぞれ柵列が描かれる。西、名残番所は、枡形の道筋である。中番所は、「中番所」と記す。
【武家屋敷】
屋敷の規模(坪数)や居住者人名が記されている点は、④青山家御家中配列図(以下、④図)と同様である。7地区からなる武家屋敷群の配置も、④図と大差ない。名残や後道に足軽組屋敷があるのも同様で、後道の牢屋も同位置である。名残では組ごとの面積が記載され、矢場も描かれている。後道では屋敷面積のみが記されるが、未記載の屋敷も多い。
同じく井上藩政期の制作とされる「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」の同一箇所の武家屋敷人名と比較すると、同一人名が確認できるのは僅かであり、ほとんどは一致しない(後述)。
【町屋】
各町の往還沿いの長さや、庄屋・年寄・組頭の名前が記載されている。例えば伝馬町の場合、東海道沿いの長さは「三丁十間」で、「庄屋 市左衛門、善吉、問や 喜伝次、年寄 弥助、庄助、清大夫、源蔵、平蔵、清兵衛、次郎兵衛、組頭 次平」と記される。
【寺社】
朱印高あるいは除地が記されている。朱印高の最も多いのは、五社大明神・諏訪大明神の各300石である。「八幡御旅所」と記されているのは、若宮八幡宮である。正徳4年(1714)から、浜松八幡宮の神輿の御旅所となったと「旅籠町平右衛門記録」(『浜松市史史料編1』、本デジタルアーカイブ登載)に記載されている。
【東海道】
大手門前や成子坂・西番所の枡形が描かれる。大手門前の高札場には、複数の高札が立てられている。馬込橋より東は「馬込往還」「東往還並松」、上新町付近は「西往還」と記される。浜松領と他領との境も「馬込木戸外より東御領分境迄 間数弐千五百八拾三間五尺、丁ニシテ壱里七丁三間五尺」、「上新町板橋ヨリ西御領分境迄 間数弐千弐百六十二間三尺、丁ニシテ壱里壱丁四拾二間三尺 内九拾三間上新町之内也」と記載される。
【本坂通】
大手門前で東海道と分岐した本坂通の枡形の道(「ひくま坂」と呼ばれる坂道)を西進すると、坂の途中に木戸が描かれている。道の両側には武家屋敷が並ぶ。高町で直角に曲り、武家屋敷の並ぶ道を北進すると名残番所である。枡形の道筋を辿って柵に囲まれた番所を通り抜けると、道の両側に足軽組屋敷が並ぶ。その北端には木戸があり、「サイガガケ」付近には「本坂通往還」と記されている。「サイガガケ」の東には、「塩焇藏」も描かれている。
⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図
折図、縦240cm×横180cm、浜松市博物館蔵。井上藩政期の制作とみられる絵図である。浜松藩井上家の家臣の名が記載されていることから、家臣屋敷の把握のために制作されたものと思われる。武家屋敷や寺院、町屋の建物が丁寧に描かれた絵図で、完成度の高い絵図である。右下に表題「遠州浜松/松尾山引駒城下絵図」が貼付されている。画面の上は東南、下は西北を示している。
【浜松城】
外周の堀、塀や柵、門、櫓、樹木が外側からの視点で描かれているが、門や櫓の名称は記載されていない。詳細に描かれた大手門や隅櫓は、周辺の商家と比べて誇張されている。城内は全くの空白で、各曲輪の配置も描かれていない。例外は古城区域で、水堀に囲まれたかつての曲輪は多くの樹木に覆われ、蔵、柵に囲まれた茅葺の建物が描かれる。西南の曲輪は永田文兵衛の屋敷地となっている。榎門と思われる城門の外側に、ひときわ大きな松が描かれているが、「鎧掛けの松」を示しているものと思われる。
【番所】
東海道筋の3つの番所、本坂通筋の名残番所が描かれる。いずれも番所建物、木戸、柵、槍立て、高札などが描かれる。
【武家屋敷】
「④青山家御家中配列図」や「⑤遠州浜松城下絵図」と同じく7地区からなる武家屋敷群の配置が描かれる。屋敷地には居住者の名前が記されるが、屋敷地の規模は記載されない。名残や後道の足軽組屋敷では名前も記されない。後道には牢屋も描かれる。同じく井上藩政期の制作とされる「⑤遠州浜松城下絵図」と、同一箇所の武家屋敷の人名がほとんど一致しないことは、前述の通りである。
この絵図の特徴は、各屋敷の建物が丁寧に描かれている点である。武家屋敷の建物には茅葺き屋根が目立つ。
【商家・町屋】
東海道沿いや小路の両側に町屋が並ぶ。浜松宿の東部(東番所~庚申堂~南能庵)では瓦葺きと茅葺きが混在し、西番所の先、上新町付近では、ほとんどは茅葺きである。これに対し宿場の中心部である大手門周辺から成子町にかけては、ほぼ瓦葺きで蔵を持つ家も多い。さらに隅櫓前の商家は蔵造りであり、武家屋敷に茅葺き屋根が目立つことと対照的である。町屋の中には、各所に夜燈が置かれる。
中番所のやや北側に問屋と書かれた施設がある。浜松宿の中枢施設であり、東海道を往来する人や荷物の継送りを手配した問屋場である。五社神社参道と諏訪神社参道に挟まれた区域に、やや大きな建物が描かれる。記載がないので断定できないが、浜松宿最大の本陣、杉浦助右衛門本陣を指している可能性もある。大手門前には制札(宿高札)も描かれる。
【寺院】
五社神社や諏訪神社の境内の石垣や社殿の配置が詳細に描かれ、東海道からの参道入り口に鳥居があったこともわかる。また境内の手前には、「五社神主」「諏訪大祝」の屋敷が描かれる。西来院では本堂と築山御前を祀る月窟廟を指す「筑山」が描かれる。鴨江寺では仁王門や本堂をはじめとする多くの建物や池が描かれる。このほか浜松城下の多くの寺社が詳細に描かれている。
【万年橋】
東海道の新川にかかる欄干をもつ太鼓橋(板橋)が描かれている。文化4年(1807)の『東海道分間延絵図』では「字欄干橋板橋」、天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』では「字欄干橋」と記されている。ここに万年橋と呼ばれる石造の太鼓橋が架けられたのは、安政4年(1857)のことである。この絵図が製作されたのは、それ以前ではなかろうか。
特記事項「⑤遠州浜松城下絵図」「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」の制作年代の検討
両絵図に記載された武家屋敷の居住者名には、いずれも井上藩の家臣の名前が確認される。このことから、両図とも井上藩政下で作成された絵図と位置づけられる。ここでは、両絵図に見られる武家屋敷の居住者名を手掛かりに、井上藩家臣名簿とも照合しながら、さらに両絵図の作成年代を絞り込んでいきたい。
【井上家の浜松藩政】
井上家の浜松藩政は、大きく前後2時期に分かれる。前期は、宝暦8年(1758)~文化14年(1817)の59年間で、正経・正定・正甫の三代にわたって浜松藩主を務めた。その後、文化14年(1817)には、正甫の不祥事によって陸奥国棚倉藩(現在の福島県東白川郡棚倉町)に転封となった。棚倉では天保7年(1836)まで19年間を過ごし、上野国館林藩(1836-45)の9年を経て、弘化3年(1845)には再び浜松藩の戻り、明治元年(1868)までの23年間、正春・正直の2代にわたって浜松藩主を務めた(後期井上藩)。
【残された井上家の家臣名簿】
井上家の家臣名簿を集成した『井上藩分限帳集成(井上河内守家中名簿)』(小幡重康編、南総郷土文化研究会、1979)には、7件の家臣名簿が掲載されている。このうち参考となるのは、「棚倉分限帳」と「井上藩御家中中小姓以上名前帳」という2つの家臣名簿である。「棚倉分限帳」は、棚倉藩時代(1817-1836)の家臣名簿で、年次の記載はないが、『井上藩分限帳集成』では、文政2年(1819)と推定している。一方、「井上藩御家中中小姓以上名前帳」は、後期井上藩(1845-1868)に書き継がれた家臣名簿である。
【両絵図に記載された武家屋敷居住者の比較】
「⑤遠州浜松城下絵図」(以下、⑤図)と「⑥遠州浜松松尾山引駒城下絵図」(以下、⑥図)に記載された武家屋敷居住者を、高町地域の武家屋敷居住者(中間屋敷を除いた約50軒)で比較すると、同一場所で一致するのが1名、屋敷の場所は異なるが同一氏名があるのが4名である。また早馬地域(約50軒)では、同一場所で一致するのが1名、場所は異なるが同一氏名があるのが1名である。早馬地域の場合、⑤図では居住者名が未記載の屋敷も多いため、一概には言えないが、⑤図と⑥図では、屋敷の居住者がほとんど一致しない傾向があるといえる。ここから、両絵図の作成時期には、ある程度の差があると推定される。
【両絵図の屋敷居住者名と井上藩家臣名簿の照合】
次に、両絵図の屋敷居住者名と「陸奥棚倉」時代の家臣名簿と照合すると、共通する氏名は、⑤図で14人(77人中)、⑥図で43人(74人中)、である。このことから、⑥図は、⑤図より、「陸奥棚倉」時代に近い可能性が高いといえよう。後期井上藩の家臣名簿との関係では、共通する氏名は⑥図で9人(うち棚倉時代の家臣名簿にもあるのは6人)、⑤図では6人(うち棚倉時代の家臣名簿にもあるのは2人)である。このことから、⑤図、⑥図とも、後期井上藩の家臣名簿と共通性が少ないといえる。
さらに水野藩の藩校「経誼館」を引き継いで弘化3年(1845)に開校した井上藩の藩校「克明館」が、両図とも描かれていない点も注目される(克明館は「②安政元年浜松城絵図」に描かれている)。これらから⑤図、⑥図とも、前期井上藩の時代に作成されたと位置づけられ、⑤図は⑥図に先行して作成された可能性が高いと推定される。
【両絵図の屋敷居住者名と有玉下村年貢割付状署名の照合】
この点を、有玉下村年貢割付状(高林家文書)に署名した家臣名と屋敷居住者名の関連でさらに検討する。宝暦10年(1760)では署名者4名中に⑤図の屋敷居住者1名の氏名が確認できる。同様に、明和8年(1771)では3名中⑤図の2名、寛政4年(1792)では6名中⑤図の2名、⑥図の1名、文化元年(1804)では4名中⑤図の1名、⑥図の2名、文化6年(1809)では3名中⑥図の2名、文化13年(1816)では3名中⑥図の1名の氏名が確認できる。
以上から、⑤図の屋敷居住者人名は宝暦~寛政期(18世紀後半)に多く、⑥図の屋敷居住者人名は、文化年間(1804~1816)に多いという傾向が見い出せる。
【まとめ~両絵図の作成年代~】
以上をまとめると、次のようになる。
- Ⅰ.⑤図と⑥図の武家屋敷には井上藩家臣の名が記載されているが、両図の屋敷居住者名はほとんど一致しない。このことから、両絵図の作成時期は数世代異なる。
- Ⅱ.両絵図に記載された屋敷居住者名を、井上藩家臣名簿と照合すると、前期井上藩の時期に作成され、⑤図は⑥図に先行する可能性が高いと位置づけられる。
- Ⅲ.両絵図に記載された屋敷居住者名を、有玉下村年貢割付状の家臣署名と照合すると、⑤図の屋敷居住者人名は宝暦~寛政期(18世紀後半)に多く、⑥図の屋敷居住者人名は、文化年間(1804~1816)に多い。
- Ⅳ.以上から、⑤図は宝暦~寛政期(18世紀後半)頃に、⑥図は文化年間(1804~1816)頃に作成されたと位置づけられる。
⑦遠江州敷智郡浜松御城下略絵図
軸装。嘉永3年(1850)8月12日制作とされる図であるが、本図は昭和23年(1948)3月10日に浜松元目在の中根櫻が模写したと記される。同様の中根櫻による模写図は浜松市博物館にも所蔵されるが、昭和32年7月15日に模写したとあり、絵図の描き方もやや異なる。原図の所在が不明であるため、どの程度、忠実に原図を模写しているか不明確な部分もある。そうした状況を踏まえたうえで、絵図の特徴を見て行こう。
- 鳥瞰的に描かれる点が特徴であり、浜松城内の建物や寺社の建物が立体的に描かれているが、写実性という点ではそれほど正確とは思えない。
- 地名については、今はない町名が多くみられるのも特徴である。秋葉町・ハンコウ丁(半頭町)・清水町(以上の3町は明治15年に合併して三組町となる)、サルヤ(猿屋)マチ・成子坂下(以上の2町は明治15年に合併して成子町となる)などがある。
- 浜松城については、水堀と塀、大手門、榎門等の門、隅櫓等の櫓が描かれるが、城内の曲輪や建物の描写は正確でない。榎門と思われる門の外側には、鎧掛けの松らしき松が描かれている。
- 番所は東海道筋の東、西番所、本坂通筋の名残番所が描かれるが、中番所は描かれていない。大手門前や西番所、名残番所の枡形の道筋は描かれる。後道に「ゴクヤ」(牢屋)、名残に煙硝藏もある。
- 武家屋敷は水色、町屋は灰色と屋根の色で区分しているようだが、家の大きさによる区別はない。寺社も多く描かれる。明治維新の廃仏毀釈で、廃寺となったところも多い。なお、高町に「半僧坊」が描かれているが、半僧坊浜松別院(正福寺)は明治17年(1884)に奥山方広寺が説教出張所を設けたことに始まるとされるので、本絵図の記載については疑問が残る。
⑧浜松御城下略絵図
本絵図には、浜松城下及び周辺の浜松藩領の村々が描かれている。記載される村は、東西とも東海道の浜松領境までの、東海道沿いから海岸までの範囲の村である。浜松城下の町については町名・軒数・町の大きさ(竪・横の長さ)、周辺の村々については村名・石高・軒数が記載されている。
【本絵図の2枚の写しが存在】
本絵図については、浜松市立中央図書館にⓐ軸装、ⓑ折図の2点が収蔵されている。ⓑは元目町の中根櫻が昭和33年(1958)4月20日に模写したもので、浜松市菅原町の川島浦治氏所蔵図とある。これは『浜松市史史料編2』に掲載され、「年代は不詳であるが、宝永年間の製図と推測され、浜松本陣杉浦助右衛門家の旧蔵にかかわるものである」と解説されている。一方、ⓐは無記名であるが、同じく中根櫻の手による写しの可能性がある。本デジタルアーカイブではⓐを登載している。
ⓐとⓑではいくつか異なる点が認められる。図中に「定助」と注記された村が、ⓐでは東鴨江村、伊場村、東若林村、佐藤一色村の4村であるが、ⓑでは西若林村が加えられている。またⓐでは金折村が2ヶ所あるが、ⓑではその一方が向金折村となっている。これらについては、ⓐでの誤りを、ⓑで修正したものと思われる。
村の石高をみると、10村で相違が見られる。他の史料と比較すると、ⓐの方が正確とみられる。ⓑ制作時に誤写した可能性がある。凡例でⓐ領分境が、ⓑでは領分場となる。ⓑ制作時の誤写とみられる。寺院名では、ⓐの田能庵が、ⓑでは南能庵と記される。ⓑで修正したものとみられる。描き方を比較すると、色合いが異なり、文字の記入の仕方も異なる。
以上から、模写の時期はⓐが先行し、ⓑ制作時に、ⓐの修正をしたが、一方で誤写もみられるとまとめられる。ⓐⓑいずれも写しであるが、原図をどの程度忠実に模写しているかは不明確である。
【絵図が示す年代】
まず城下についてみると、御伝馬町のほか、田町、肴町、旅籠町、塩町の4町には「御伝馬町ノ内」と記されている。これは浜松宿の伝馬人足の負担をする町(御役町)のことで、寛文8年(1668)に成立した。正徳2年(1712)には連尺町が加わって6町となるので、この絵図が示すのは、これ以前の状況である。
次に助郷関係の記載を検討する。東鴨江村、伊場村、東若林村、西若林村、佐藤一色村の4村(ⓑ図では西若林村を加えた5村)には、「定助」と注記されている。この5村は、寛永14年(1637)の助馬制(参勤交代などの大通行の際、荷物の継立用の宿場の馬の不足を補うため、近隣の村から馬を徴発する制度、人足も徴発する助郷制の先駆)の導入に伴い、浜松宿の助馬村に指定された村々である。
本絵図の左上隅には、定助5ヵ村・高2,014石7斗6升7合、大助81ヵ村23,841石4斗2升9合と記載されている。寛文年間には、助馬村を定助(宿人馬の不足を恒常的に補う人馬役を課された村)と大助(宿と定助の人馬だけでは不足する場合に人馬を徴発される村)に区分したとされるので、それ以後の状況を示している可能性がある。
一方、助郷制度が確立した元禄7年(1694)の浜松宿の助郷村を集計した「元禄七年浜松宿助郷村譯石高」(「糀屋記録」『浜松市史史料編1』)では、「定助16ヵ村・高5,098石、大助44ヵ村15,666石」となっている。おそらく、この段階で「定助」に指定された村が5村から16村へと増加したのだろう。とすれば、本絵図の情報は、それ以前の時期を示しているといえよう。なお大助の村数や石高が、「元禄七年浜松宿助郷村譯石高」と比較すると多すぎるようにも思われるが、これについては判然としない。
以上から、本絵図は、寛文年間から元禄年間にかけての頃の御役町などの浜松宿の状況と、浜松宿周辺の助郷村の状況を示しているといえよう。
【浜松城下】
浜松城は入り口にあたる大手門や堀・土居・塀などの外周部のみが描かれている。東海道筋には、浜松城下の番所(東・中・西)が描かれる。東番所の東側や西番所の南側(城下・宿場からみて外側)には、木戸と柵が設置されている。また大手門前や西番所の外側では東海道の道筋は枡形となっている。大手門前には、宿高札場が描かれている。柵内に5枚の高札が描かれており、実態に近い描き方である。本坂通や秋葉道は、東海道に比べて線も細く、簡略化された描き方である。名残番所も描かれていない。
浜松宿の各町については、縦(竪)及び横の長さ、家数が、それぞれ記されている。「御伝馬町」が示されているのも、特徴の一つである。
寺社では、庚申堂、田能庵(南能庵)、寿徳院、玄忠寺、五社大明神、諏訪大明神、法林寺、薬師が掲載されている程度である。
【浜松藩領の村々】
本絵図では、東西の浜松領境を両端として、東海道沿いの村々の石高・家数が楕円形の囲みの中に記されている。東海道関係では、向宿・若林の2つの一里塚が黒丸で示され、沿道の松並木も描かれる。天神町は町場であったことがわかる。また若林から高塚にかけての東海道の南に蓮池が描かれている。
⑨浜松御城下絵図略図
『浜松市史史料編1』に「宝暦年間浜松御城下略絵図」として掲載されている。宝暦年間とした根拠は明らかでない。「④青山家御家中配列図」と同じく、浜松城下の武家屋敷の配置を示した絵図である。
【2枚の写図】
本絵図は浜松市立中央図書館に1部(以下、ⓐ図)、浜松市博物館に1部(以下、ⓑ図)が収蔵されている。いずれも軸装である。ⓐ図には、昭和25年(1950)10月に浜松在の中根櫻が図写したと記載される。一方、ⓑ図には、浜松元目在の中根櫻が昭和32年7月に図写したと記載され、右上に「宝暦年間城下絵図略図」との表題がある。大きさはⓐ図が縦136㎝×横135㎝、ⓑ図が縦138×横141㎝である。原図の所在が不明のため、どの程度、忠実に模写しているか不明確な部分もある。
【武家屋敷と足軽屋敷と区分】
本図は「④青山家御家中配列図」と類似するが、武家屋敷と足軽屋敷を区分しているのが異なる。ⓐ図には武家屋敷の一部に人名が記載されるが、屋敷規模は記されない。一方、ⓑ図には武家屋敷の人名は記載されていないなど、記載内容に差異が見られる。
【浜松城】
浜松城内も描かれる。石垣や土手、塀、空堀、水堀の配置も「④青山家御家中配列図」などと同様である。城の建造物については門、多聞は描かれるが、御殿等の建造物は描かれていない。天守曲輪には天守台と記載されているのみである。旧引馬城区域には楕円形の4つの曲輪が描かれる。西北曲輪(現在は東照宮が鎮座)は「古城 蔵」、東北曲輪は「蔵」と記され、蔵らしき建物が描かれる。西南曲輪は家臣屋敷地で、東南曲輪は矢来に囲まれた「樹下屋敷」で「蔵番」が置かれている。この4つの曲輪の中央を南北に走る堀は通路として利用されている。
【城下の施設】
城下の施設では、東海道筋の東・中・西番所、本坂通筋の名残番所、高札場が描かれる。東海道・本坂通の枡形の道筋も表現されている。
【町屋と寺社】
町場はピンクで示されるが、ゾーンが示されているのみである。寺社は、名称と敷地のみを示したところが多いが、五社大明神、諏訪大明神、鴨江寺は境内の建物、石垣、池等が詳細に描かれている。
1.浜松城絵図
元亀元年(1570)に岡崎城から引馬城へ移った徳川家康は、西側の丘陵一帯へ城域を拡張して浜松城と名づけ、17年間を過ごした。近世城郭としての浜松城は、徳川家康の関東移封後に入城した堀尾吉晴によって整備された。江戸時代には東西、南北それぞれ600mほどの規模を持つ大規模な城であった。その浜松城も明治維新で廃城となり、現在は天守曲輪や、本丸の一部、西端城曲輪の一部が浜松城公園として残されているに過ぎない。そのため浜松城は小規模な城であるというイメージが広まっているが、決してそうではない。その姿を今に伝えるのが、以下の浜松城絵図である。
①遠州浜松城絵図
【概要】
17世紀制作。軸装。縦157㎝×横90㎝。南(大手門)が上である。石垣は天守曲輪、本丸と、二の丸の一部、厩屋の一部、大手門の両脇と大手門を入った正面の枡形部分など中枢にみられるのみである。天守曲輪、本丸の石垣の上には狭間(鉄砲や矢を放つために穿たれた穴)のある土塀が巡らされている。二の丸の外周や、清水曲輪、西端城曲輪、三の丸南面、出丸東側の門周辺などでは、土居の上に狭間のある土塀を巡らせている。出丸の周囲では土居の上に柵を巡らせている。それ以外の大部分の区域は土居を巡らすのみである。
堀は水堀と空堀が色分けされる。水堀(灰色)は三の丸の南面(大手門付近より東)と東面の一部、二の丸の南側と東側(南半)、清水曲輪や西端城曲輪の外周の一部、馬冷やし、および古城の周囲に巡らせるが、他はほとんどが空堀(茶色)である。
【古城】
図の左下に堀や土居で囲まれた4つの曲輪が描かれ、それぞれ古城と記される。ここが浜松城の前身、引馬城にあたる部分である。絵図作成時には侍屋敷や蔵屋敷として使われたようだ。各曲輪間の堀切の部分は、現在も良好な状態で残り、蔵屋敷があった西北の曲輪には、現在、明治17年(1884)に旧幕臣井上延陵らが創建した東照宮が鎮座する。
【天守曲輪】
浜松城の最高所にあたる。屈曲した石垣(下部は土居)・狭間のある土塀に囲まれた曲輪内に天守台が描かれる。天守台の東側には付櫓、西側には八幡台と呼ばれる張出部がある。天守は描かれていない。江戸時代初期に失われていたようだ。天守台には、現在、復興天守が立つ。天守曲輪東に天守門、搦め手に埋門が描かれる。天守門は、近年、復元されている。
【本丸】
天守曲輪の東の石段を下りた一段低い部分にあたる。南面の鉄門を入ると三方を石垣に囲まれた区画があり、その一郭の石段を上って本丸内に入る。南面の石垣の上に長大な多門櫓が築かれ、東南には菱櫓(二重櫓)がある。東と北は石垣と狭間のある土塀で囲まれ、東北に二の丸へと通じる裏門があり、北面に富士見櫓が描かれる。本丸内には小規模な建物が2棟描かれる。本絵図には描かれていないが、本丸には将軍専用の御成御殿があった。将軍の利用は江戸時代初期に限られ、以後、使われることはなかった。現在、本丸の東半分及び南側は失われている。
【御誕生曲輪】
本丸の東の一段低くなった箇所に、周囲を柵で囲まれた御誕生曲輪がある。本丸とは土塀・土居および空堀で隔てられている。徳川秀忠が誕生した場として「聖なる地」とされていた場所である。浜松市役所西北部から旧元城小体育館付近にあたる。平成23年(2011)の発掘調査では、德川家康在城期の井戸1基が発見されている。
【二の丸】
現在の浜松市役所北半から旧元城小学校校庭にあたる区域である。中枢施設である二の丸御殿(城主の館や浜松藩政庁)があった場所であるが、本絵図に御殿は描かれていない(二の丸御殿の詳細は「③浜松城二の丸図」参照)。二の丸の南側・東側南半部には水堀と土塀・土居、西側の御誕生曲輪との間には水堀と土塀、北側の広場との境には土塀、東側北半部には土塀・石垣がめぐり、南の表門、東の裏門が描かれる。
二の丸北側には外周に狭間のある土塀・土居を巡らせた広場があり、その西北隅に「五社松」が描かれている。徳川秀忠の産土神である五社神社はもと浜松城二の丸にあったといわれるが、その名残を示すものであろう。また広場の東北隅には、土塀(南面)や、水堀と柵・土居(西面)に囲まれた御城米蔵もある。二の丸の南側には土塀・石垣や空堀に囲まれた御馬屋があり、馬屋と思われる細長い建物が描かれている。御馬屋の西には本丸や二の丸への入り口である榎門が描かれる。
【三の丸】
二の丸・御馬屋や古城の南に広がる広大な区画が三の丸である。「侍町」と記されているように、家老などの上級家臣の屋敷が連なっていた。「④青山家御家中配列図」には青山藩政期(元禄期、17世紀末)に三の丸に屋敷を構えた家老など上級家臣の名と各屋敷の規模(間口、奥行の長さ)が描かれている。「⑤遠州浜松城下絵図」(19世紀半ば)にも屋敷を構えた上級家臣の名と屋敷坪数が描かれ、「②安政元年浜松城絵図」には「屋鋪」の区割りのみが描かれる。三の丸南端には浜松城の正門である大手門があり、両側に水堀を巡らせた土塀・土居が延びる。三の丸で土居の上に土塀が巡るのは、東海道に面した南面にほぼ限られる。三の丸東南偶には二層の隅櫓が描かれる。
三の丸から堀を挟んで南側は東海道で、大手門の南で直角に南へ折れる。現在の連尺交差点である。ここから堀に架けられた橋を渡って大手門をくぐると枡形の石垣につきあたる構造である。三の丸は、現在、オフィス街となっている。
【その他】
堀、土居、柵に囲まれた出丸(現在の浜松市立中央図書館敷地)のほか、天守曲輪の南から西にかけて清水曲輪、西端城曲輪が描かれる。両曲輪と天守曲輪との間には空堀が描かれているが、近年の発掘調査でその存在が確認されている。西端城曲輪・端城門の外側には、さらに堀、土居、柵に囲まれた曲輪が続く。そこから枡形の通路・門をくぐって城外へ出ることとなる。
②安政元年浜松城絵図
軸装、縦133cm×横158cm。嘉永7(安政元)年(1854)11月4日に発生した安政東海地震によって倒壊・破損した浜松城内外の建物や石垣について被害状況を記した絵図である。図左上に「浜松/御普請方下書/安政元寅歳十一月四日辰刻過就地震御城内外所々潰幷破損所巨細書込/絵図方杉浦氏」と書き込まれる。多くの櫓、多門、門、塀が倒壊や大破した状況、本丸や天守曲輪の石垣が各所で崩れたり、孕んだ状況が記される。角櫓、榎門、二の丸表門、大手門前の使者詰所等に「皆潰」と記されるなど、被害の大きさが伝わる。本丸南側付近の被害状況は、以下のように記載されている。
多聞 「桁二十二間梁三間惣躰曲リ大破、石垣高サ五間所々孕ミ」 菱櫓 「梁四間桁五間曲リ惣躰壁落、石垣高サ五間、所々孕」 鉄門 「ハリ四間半桁九間壁落曲、石垣左高サ五間長五間崩レ、折廻シ塀六間」 榎門 「梁弐間桁六間、皆潰」 「榎門際塀より銭櫓迄百四拾五間内二十五間倒所々大破」
浜松城外の武家屋敷や施設(東・中・西・名残番所、克明館、塩硝藏、高札場)も描かれ、これらの施設の被害状況も伝える。東(馬込)番所建物は「皆潰」、名残番所は「曲リ大破」、克明館の被害状況も記載される。なお城から離れた東(馬込)番所付近は図右下、中番所・西(成子坂)番所付近は図右上(南北が逆)に描かれている。
本絵図は、「①遠州浜松城絵図」(以下、①図)から約二百年が経過した19世紀半ばの浜松城や番所等の状態を示す絵図としても貴重である。曲輪の配置、石垣、土手、塀、堀の状態は基本的に同じであるが、①図と比べて詳細に描かれている。その特徴を列記しよう。
③浜松城二の丸図
前述の浜松城絵図には、いずれも城の中枢建物である本丸や二の丸の御殿は描かれていないが、二の丸御殿については、その詳細を描いた絵図が2枚ある。そのひとつは元禄年間制作の「青山家二の丸絵図」(本デジタルアーカイブ未登載)である。藩の行政機関が置かれた「表御殿」と城主の居館である「奥御殿」が色分けして描かれ、その詳細がわかる。
もう1枚が本絵図(浜松市立中央図書館蔵)である。軸装、縦93cm×横120cm。時期不詳であるが、『浜松市史通史編2』では、青山家二の丸絵図より新しい時期のものと推測している。本絵図と同様の絵図は浜松市博物館にあり、その受入簿によると「⑦遠江州敷智郡浜松御城下略絵図」、「⑨浜松御城下絵図略図」とともに、昭和32年(1957)7月15日に元目町中根櫻氏が図書館の依頼により複写したもの、との注記がある。この点から浜松市立中央図書館蔵の本絵図も、同様の写しである可能性が高いと思われる。なお博物館蔵絵図と比べると、内容に若干の相違がある。この点から史料的価値の評価については、慎重にせざるをえない。本絵図の概略を述べれば、以下の通りである。
塀によって囲まれた二の丸の南に表門、東に裏門がある。表門を入ったところには番所がある。二の丸御殿は畳、板敷、竹縁が色分けされているが、あわせて1,140畳(570坪)の大きな建物である。南半部は表御殿である。西寄りの表座敷、書院上段、座敷上間は藩主が執務や謁見に使用した部屋であろう。西北部は奥御殿である。西北隅の突出した一郭には寝間や湯殿などの生活空間がある。御殿の南には矢場があり、敷地内には数棟の土蔵も描かれる。