東広島市原爆死没者慰霊碑 ひがしひろしましげんばくしぼつしゃいれいひ
原爆で被災した東広島市民で直接死没した人や後に死没した人の名簿を納めてある。毎年新たに死没した人の名簿を納め慰霊祭を行っている。
檜高憲三 ひだかけんそう
高屋町の生れ。(1897~1966)西条尋常高等小学校に教師として勤務、26歳で同校の校長となり昭和二十一年(1946)までの26年間、千葉命吉の「独創教育」を理想にかかげて独自の児童教育を工夫し、「西条教育」の名を全国に広めた。
百度石 ひゃくどいし
社寺の境内で一日に百度参りの起点の標識として立てた石。
平賀氏 ひらがし
平賀氏の本貫地は出羽国平鹿郡であり、新補地頭として安芸国高屋保に三代惟長が入部。弘安頃に御薗宇城を築く。
十代弘章のとき安芸守護山名氏に御薗宇城を攻められるが周辺の国人の助けもあり3年間守り、幕府の仲介で和睦した。
以後高屋を完全に領国とし安芸国の有力な国人領主とし臨機応変に大内氏、尼子氏、毛利氏に協力し領国を経営し、毛利氏が関ヶ原に敗戦した後は毛利氏に従い萩に移住。
小国ながら平賀氏の高屋支配は400年におよんだ。戦国時代の深まりとともに居城を白山城、頭崎城と築城し平賀氏三城として戦国時代の山城の変遷を物語っている(県史跡)。
平賀氏墓地 ひらがしぼち
(県史跡)
平賀氏菩提寺であった明道寺跡にある。多くの宝篋印塔、五輪塔などがあるが、この中で葬主のわかるのは「真岳」の法名を刻んだ平賀弘保(十五代)、「天巌」の法名を刻んだ平賀隆宗(十七代)の2墓のみ。どちらも宝篋印塔で、墓地の西側にある。そしてこの墓地の前面の畠は平賀氏の初期の居館ではなかったかと言われている。