東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ
⑥西高屋駅とまちの変化を調べてみよう!
西高屋駅はどのように変わってきたのでしょう?
なぜ変わってきたのでしょう?
画像 【資料】西高屋駅
(2020年6月14日撮影)
西高屋駅は、1917(大正6)年に信号場としてうまれたんだ。
信号場とは、汽車が行きちがいだけをするところで、お客さんや貨物は乗りおりしないところなんだ。1926(大正15)年に駅になり、お客さんを乗せたり貨物をつんだりするようになったそうだよ。
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西高屋駅ができて、その後、まわりはどうなっていったのだろう?
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第2次世界大戦のころの西高屋を調べてみましょう。
画像 【資料】高屋中学校
(2020年6月14日撮影)
西高屋駅の近くにある高屋中学校は、山をけずって平らにしたところにあるよ。
ここは、第2次世界大戦のころ、広島市内にあった日本製鋼所(にほんせいこうじょ)という工場を田舎(いなか)に避難(ひなん)させるために用意された土地なんだ。
のんたの画像 画像 【資料】引き込み線路用の橋のあと
(2020年6月14日撮影)
コンクリートのかたまりがあるね?これはなにかな?
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西高屋駅のとなりに、川にかける橋の足となったコンクリートのかたまりがのこっているね。
この橋は、鉄道をつかって工場まで重たい鉄の材料をはこぶためにつくられたんだ。
この橋は戦争が終わって使われることはなかったけど、コンクリートだけは今でものこっているよ。
戦争と鉄道の関係は、 【キーワード】瀬野八をみてみよう!
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西高屋駅は、工場のまちになったことをきっかけに変化していったんだね。
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戦後の西高屋を調べてみましょう。
画像 【資料】住宅地の写真
(2020年6月14日撮影)
画像 【資料】高屋町の人口の変化
(出典:『統計でみる東広島』をもとに作成、2018年時点の集計結果)
1945年に人口が増えているね。どうしてかな?
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日本製鋼所の避難のためにけずって平らにした土地には、戦争がおわったために工場がこなかった。そのかわりに住宅や学校がつくられたよ。
のんたの画像 画像 【資料】西高屋駅の利用者数の変化(1日平均乗車人員)
(JR西日本西条駅提供)
画像 【資料】1996(平成8)年の西高屋駅
(出典:れとろ駅舎
画像 画像 【資料】2020(令和2)年の西高屋駅
(2020年6月14日撮影)
グラフをみて、どんな変化がわかるかな?
写真をみて、どんな変化がわかるかな?
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西高屋駅の利用者数は2009年までゆっくりふえているね。その後、少しずつへってきているね。今では毎日5,000人ぐらいの人が使う駅になっている。これは、広島県尾道市(おのみち)にある尾道駅と同じくらいの利用者数だよ。
1996年と2020年の西高屋駅の写真をみると、もともとは左側にしか改札口がなかったことがわかるね。しかし、2020年の写真では、右側にも改札口ができているよ。コンビニもできたね(コンビニは2006年に、新改札口は2015年にできた)。駅は少しづつ便利になっているんだな。
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【資料】西高屋駅前のバスてい
(2020年12月1日撮影)
これは前のページで勉強した動画だね。 歩いて1分のところに大きなバスていができたよ。送りむかえの人が車をとめておくこともできるんだ。近くに大きな住たくだん地ができて、駅の利用者がふえた結果、このようなバスていが1998年ごろに整びされたんだね。
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これからの西高屋駅について考えてみましょう。
いま西高屋のまちは、どんな変化が起きているんだろう?
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高屋に住たくがふえはじめてから40年以上たったよ。 わたしはそのころにうつり住んできたんだけど、いまは70歳。 家の周りには、お年よりがふえたね。西高屋駅はエスカレーターもエレベーターもないんだよ。年をとると階だんはどうもつらくてね…。
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だん地にうつり住んできた人たちが年をとってきたんだね。駅はどうなっていくべきかな。
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これまで学んだことをまとめると、西高屋駅のまわりは
工場のあるまち→人がたくさん住むまち→学校があるまち→お年寄りが増えているまち、と変化してきたね。それに合わせて、駅も変わっていくんだね。
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