東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ
②藤原春鵲を地いきの人々はどのように
思っていたのだろう?
実際に石碑のある築地神社(つきじじんじゃ)にやってきました。
神社 【資料】築地神社の位置
(出典:国土地理院)
神社 神社
国道2号線沿いにあるんだね。階段をのぼってみよう。
のんたの画像 神社 神社
森に囲まれたしずかできれいな神社だね。
右がわになにかあるぞ。見てみよう!
のんたの画像
藤原春鵲の碑と、となりに説明板があります。
画像 【資料】藤原春鵲の碑 画像 【資料】碑についての説明版
説明板を読んでみましょう。
<説明文の内よう>
市指定史跡(しせき) 藤原春鵲の碑 昭和53年11月16日指定

藤原春鵲(1830年-1896年)は、長崎(ながさき)の池田玄彬(いけだげんひん)(のちの東京帝国大学医学部教授(とうきょうていこくだいがくいがくぶきょうじゅ))のもとで医学の指導(しどう)を受けました。長崎では、とくに種痘(しゅとう)の研究を行い、2年後に帰郷(ききょう)して上三永村で家業の医者を継(つ)ぎました。
嘉永(かえい)5(1852)年に、当時の賀茂郡代(かもぐんだい)に新たな天然痘治療(てんねんとうちりょう)の意見を上申するとともに、施療法(せりょうほう)を考え、賀茂郡内(かもぐんない)で種痘(しゅとう)を無償(むしょう)で行いました。
また、翌年(よくねん)の大飢饉(だいききん)では金75両を、さらに文久(ぶんきゅう)元(1861)年の飢饉(ききん)時には米を出して、多くの人々を救済(きゅうさい)しています。
慶応(けいおう)2(1866)年の第2次長州戦争の際に広島藩(ひろしまはん)で応変隊(おうへんたい)が編成(へんせい)されていますが、藩命(はんめい)によって医長となり軍医勤務(きんむ)を行っています。
この功徳碑(くどくひ)は、こうした藤原春鵲の業績(ぎょうせき)を称(たた)えたものです。
碑文(ひぶん)は旧東京第一高等学校教授(きょうじゅ)塩谷時敏(しおやときとし)の撰文(せんぶん)、乃木希典(のぎまれすけ)の揮毫(きごう)によるものです。

説明板には、「種痘(しゅとう)」「郡代(ぐんだい)」「天然痘(てんねんとう)」「飢饉(ききん)」「揮毫(きごう)」などむずかしい言葉がならんでいるね。わからない言葉は意味を調べてみよう。
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石碑をもっとよく観察してみましょう。
画像 画像 【資料】台座のうしろがわ
築地神社にあった石碑は、100年以上も前の藤原春鵲の功せきを伝えてくれる功徳碑(くどくひ)なんだ。功徳の「徳(とく)」という字は、道徳(どうとく)の徳という字といっしょだよ。功徳は、よい行いのことだね。
きっと藤原春鵲に助けてもらった人々やその子孫が、感しゃの気持ちとその功せきを後世に伝えるためにつくったんだろうな。台座のうしろには、その石碑をつくった人たちの名前がきざまれているよ。
この功徳碑は、東広島の歴史を教えてくれる大切なものだから、市の指定史跡(していしせき)になっているよ。
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塩谷時敏(しおやときとし)と乃木希典(のぎまれすけ)は、どのような人物なのでしょうか。
画像
「塩谷時敏」は、明治・大正時代の漢学者だよ。
「乃木希典」は、日露戦争で功績を残した陸軍の軍人だよ。
地いきの人々が、当時えいきょう力のあった学者や軍人にたのんで碑文を書いてもらったそうだよ。それほど地域の人々は、藤原春鵲の功せきを記録にのこし、後世の人々の記憶(きおく)にのこしたいと考えたんだね。
のんたの画像

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