<説明文の内よう>
市指定史跡(しせき) 藤原春鵲の碑 昭和53年11月16日指定
藤原春鵲(1830年-1896年)は、長崎(ながさき)の池田玄彬(いけだげんひん)(のちの東京帝国大学医学部教授(とうきょうていこくだいがくいがくぶきょうじゅ))のもとで医学の指導(しどう)を受けました。長崎では、とくに種痘(しゅとう)の研究を行い、2年後に帰郷(ききょう)して上三永村で家業の医者を継(つ)ぎました。
嘉永(かえい)5(1852)年に、当時の賀茂郡代(かもぐんだい)に新たな天然痘治療(てんねんとうちりょう)の意見を上申するとともに、施療法(せりょうほう)を考え、賀茂郡内(かもぐんない)で種痘(しゅとう)を無償(むしょう)で行いました。
また、翌年(よくねん)の大飢饉(だいききん)では金75両を、さらに文久(ぶんきゅう)元(1861)年の飢饉(ききん)時には米を出して、多くの人々を救済(きゅうさい)しています。
慶応(けいおう)2(1866)年の第2次長州戦争の際に広島藩(ひろしまはん)で応変隊(おうへんたい)が編成(へんせい)されていますが、藩命(はんめい)によって医長となり軍医勤務(きんむ)を行っています。
この功徳碑(くどくひ)は、こうした藤原春鵲の業績(ぎょうせき)を称(たた)えたものです。
碑文(ひぶん)は旧東京第一高等学校教授(きょうじゅ)塩谷時敏(しおやときとし)の撰文(せんぶん)、乃木希典(のぎまれすけ)の揮毫(きごう)によるものです。
説明板には、「種痘(しゅとう)」「郡代(ぐんだい)」「天然痘(てんねんとう)」「飢饉(ききん)」「揮毫(きごう)」などむずかしい言葉がならんでいるね。わからない言葉は意味を調べてみよう。