東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ
④藤原春鵲をもっとくわしく調べてみよう!
藤原春鵲にかかわる年表をみましょう。
江戸
時代
1831年 代々医者の家けいである藤原家に生まれる
    頼聿庵(らいいつあん)に習う
    長崎(ながさき)で池田玄彬(いけだげんひん)に学ぶ
1852年 賀茂郡代(かもぐんだい)に新たな天然痘治療(てんねんとうちりょう)について提言する
1853年 飢饉(ききん)が起きたとき、75両(現在の約600万円)を寄付する
1861年 飢饉(ききん)が起きたとき、家の蔵(くら)の米をこまっている人に分けあたえる
1866年 第二次長州征伐(せいばつ)が起きたとき、弟子をつれてケガをした兵や被害をうけた人々の治療(ちりょう)にあたる
明治
時代
より
あと
1870年 苗字・帯刀(みょうじ・たいとう)をゆるされる...①
1873年 上三永村(かみみながむら)に小学校を建てるとき、その費用の半分以上を負たんする...②
1884年 緑綬褒章(りょくじゅほうしょう)を受章する...③
1896年 67歳でなくなる(数え年)
1912年 築地神社内に功徳碑(くどくひ)が建てられる
1968年 功徳碑が西条町の文化財(ぶんかざい)に指定される
年表内の①について、「苗字・帯刀(みょうじ・たいとう)」とは何でしょうか。
どうして春鵲は「苗字・帯刀」をゆるされたのでしょうか。
苗字・帯刀は、苗字(みょうじ)と刀を持つことだよ。春鵲が生まれたころ、多くの人々には苗字や刀をもつことが認められていなかったんだ。この二つを持つことができたのは「武士(ぶし)」とよばれた一部の人たちにかぎられていたんだ。でも、役に立つ新しいぎじゅつを開発したりして武士にみとめられると、苗字・帯刀をゆるされることがあったんだ。
のんたの画像
年表内の②について、どうして藤原春鵲は小学校を建てるのにお金を負たんしたのでしょうか?
春鵲が生まれた江戸時代には、「学校」という制度(せいど)はなかったんだ。でも、明治時代になると、みんなが学校に通うことを定めた制度ができるよ。
でも当時は制度ができたばかりで、男の子の40%、女の子の15%しか学校に行かない時代だったんだ。上三永小学校はその最初のころに建てられたんだね。
藤原春鵲に関する記録には、小学校を建てただけでなく、文ぼう具を用意できない子どもたちに文ぼう具をプレゼントしたことも書かれているよ。春鵲の地いきの教育をよりよくしたいという願いがよみとれるね。
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年表内の③について、「緑綬褒章」はどんな人にあたえられるのでしょうか。
緑綬褒章(りょくじゅほうしょう)は、ボランティアなどの社会に奉仕(ほうし)する活動を行ない、特にすばらしい功せきを残した人におくられるメダルだよ。
地いきの教育にお金をだしたリ、飢饉(ききん)の時の人助けたりしたことが受章につながったんだろうね。
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