縄文集落

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近年の大規模開発に伴う広大な面積の調査によって、縄文集落の実態が次第に明らかとなってきた。たとえば東北新幹線の建設工事に伴って調査された、岩手県紫波(しわ)町の西田(にしだ)遺跡(中期後半)では、中央部に墓壙が円形をなして設けられ、それを数十棟の掘立柱建物群が取り巻き、さらにその外側に竪穴住居群と貯蔵穴とされるフラスコ状ピットを設置するという、いわば各遺構(施設)が同心円状に造成されている(42)。秋田県鹿角(かづの)市の高屋館(たかやだて)遺跡は、後期前葉の十腰内Ⅰ群(式)土器期の各遺構が、配石遺構を中心に土壙・柱穴群と順に取り巻く形で弧状に配列され(43)、同じく鹿角市の大湯環状列石万座(まんざ)遺跡においても、環状列石を中心として外側を柱穴群がめぐり、その外側をフラスコ状ピットなどの土坑が囲み、さらに外周を竪穴住居がめぐるという形状を示しており(44)、同心円状の配列をなしている可能性が考えられよう。八戸市是川の風張(かざはり)(1)遺跡も類似の形状をなし、中央部に広場が設けられ、それを取り巻いて墓壙、フラスコ状ピットなどの土坑、掘立柱建物に関連の柱穴、竪穴住居などの各遺構が、同心円状に造設されている(45)。これに対し三内丸山遺跡は外見すると異なる構造に思われるが、各遺構の配列は「北の谷」の南を東西の方向に並んだ高床式掘立柱建物群を中心にして、住居の配列が円形の構造を示しているように考えられる。このように縄文集落の構造は、中期と後期において円形(環状)を基本にした計画のもとに造成されたのであろう。