土壙墓

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縄文時代の埋葬法は土壙墓が主体であり、死者が手足を折り曲げた屈葬(くっそう)か、ないしは手足を伸ばした伸(展)葬(しん(てん)そう)で、屈葬が圧倒的に多い。このような屈葬という窮屈な姿勢をとらせたのは、墓壙を掘る労力の軽減もあろうが、きわめて起きにくい姿勢を死者に与えて、迷走徘徊し人々に災いを及ぼすのを防ぐ意味も考えられよう。このような土壙墓は、縄文中期になると、集落の規模の拡大に伴って共同墓地の様相を示してくる。たとえば昭和五十一年(一九七六)に青森市三内丸山(Ⅱ)遺跡で発見された二列に配列された土壙墓五七基(南側三四、北側二三)に続いて(70)、平成四年(一九九二)からの調査では、遺跡の中心部から東へ延々と四二〇メートルまで達する土壙墓が発見された。しかも、一九七六年の調査と同様に南北の配列を有する状況がとらえられ、その配列の間を通路が走り、各土壙墓は通路を中に南北が向い合う形状を示すなど(71)、共同社会の死者に対する扱い(供養等)と集落の安寧を死者に託しているように思われる。
 土壙墓には、地表を五〇センチメートル~一メートル未満に掘り下げて遺体を埋葬したポピュラーなものと、当初は食料品(主に堅果物)などの貯蔵を目的に作られ、その後、墓壙に転用した施設としてフラスコ状ピット(関東地方などでは袋状土壙(ふくろじょうどこう)と称する)があり、この名称は化学で実験に用いられるフラスコに断面の形状が類似するところから起った。フラスコ状ピットは縄文前期から中期にかけてみられ、東北北部では深さが一・五メートルを超えるこの類の遺構は、湿度が適度に安定をみせるためか遺体の残りがよく、しかも数体の遺体が放射状(頭部を壁側に足部を中央)に葬られた例もみられる(72)。

八戸市・是川中居遺跡で検出された土壙墓(後期)


フラスコ状ピットに埋葬されていた人骨
(左:南郷村・畑内遺跡 右:上北町・古屋敷遺跡)