斉明天皇六年の「北征」

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比羅夫は、斉明天皇六年(六六〇)にも三たび北征を試みた(史料二七)。今回も津軽・飽田・渟代の蝦夷を自分の船に乗せて(史料二七では「陸奥蝦夷」とあるが、それはこれら三郡を含む広域地名であろう)、渡嶋蝦夷の拠点、岩木川河口あたりに到着した。
 すると対岸の海辺に、渡嶋蝦夷千人あまりが軍営を構えており、比羅夫軍を見つけると、大声で、「粛慎(あしはせ)の水軍がたくさんやってきて、我らを殺そうとするので、川を渡ってそちらの軍にお仕えしたい」と叫んだ。そこで比羅夫が船を対岸に出して、粛慎の居場所とその船の数を聞き出し、使者を粛慎のところにやって呼び出したのであるが、出てこない。さらに綵帛・兵器・鉄などを海辺に積んで粛慎をおびき寄せたところ、彼らは軍船を連ね、木に鳥の羽をかけて旗印としながら桿を操って、一斉に現れ、浅瀬に船を泊めた。一艘の船から二人の老人がおりてきて、積み上げてあるものをよく調べて、やがて、単衫(ひとえきぬ)に着替え、それぞれ布一端を持って船に帰っていった。しかし一族の者は、その持ち帰ったものが気に入らなかったのか、しばらくしてふたたび老人が現れ、単衫を脱いでそこに置き、布をも元のところに返して、船に乗って帰っていったという。
 ここに交渉は決裂した。比羅夫は再度、何艘かの船を出して粛慎を呼び寄せたが、彼らは応じず、宿営地にしていた弊賂辨嶋(へろべのしま)(岩木川河口のデルタであろう)の柵に帰ってしまって出てこない。まもなく比羅夫軍と粛慎との間で戦闘が開始されたのであるが、比羅夫軍は粛慎を打ち破り、粛慎は柵にいた妻子を自ら殺して滅亡したという。三度にわたる比羅夫の「北征」のうち、戦闘らしい戦闘はこのときだけであった。
 比羅夫の「北征」はこの斉明天皇六年(六六〇)までで、翌年からは、その水軍は大和政権による百済救援のための主力部隊として利用され、三年後の白村江の戦で、それが新羅・唐連合軍に敗れた後は、比羅夫が大宰帥(だざいのそち)(率)に任ぜられて九州へとどまったので、もはや二度と津軽の地にかかわることはなかった。
 ちなみに弘前市の熊野奥照(くまのおくてる)神社には、比羅夫が小田山(こうだやま)(八甲田山)の麓に熊野三所大権現を祀ったという起源譚が残されているが、これはのちに触れる田村麻呂伝説と同じく後世の仮託であって、もちろん史実とはかかわらないものである。