この間に七三歳の老帝光仁天皇は、天応元年(七八一)、位を子の桓武天皇に譲った。その最晩年に、「天下徳政相論」と呼ばれた論争で、「造作と軍事」こそが最大の政治問題となった桓武天皇の治世が開始されたのである。「造作」とは都城の造営、「軍事」とは蝦夷征討を指す。征夷戦争は、桓武天皇の治世の重要な柱の一つであった。
翌延暦元年(七八二)、万葉歌人として著名な大伴家持(おおとものやかもち)が鎮守将軍となるが、家持はすでに老齢であり、征討事業はほとんど進展しなかった。
延暦四年に家持が死ぬと、翌年から新たに本格的な胆沢方面征討軍の準備が始まった。延暦七年には、征東大使(大将軍)に参議(さんぎ)紀古佐美が任ぜられている。すでに触れたように、古佐美は光仁天皇の時代に征討副使の任にあった人物である。桓武天皇は古佐美に対して、全権委任の証(あかし)である節刀(せっとう)を賜る際に、「坂東の安危はこの一挙にある。将軍、よくこれに勤めよ」(史料二〇〇)という著名な文言を含む勅書を発して励ました。