蝦夷首長阿弖流為

86 ~ 87 / 553ページ
古佐美は、多賀城に五万二〇〇〇人を越える大兵力を準備していたが(史料一九六)、延暦八年(七八九)三月、雪どけを待っていよいよ軍事作戦が開始された。国家的大事である。伊勢神宮に戦勝祈願の奉幣使(ほうべいし)も派遣された(史料二〇二)。
 目指す胆沢は当時「水陸万頃」(史料二〇七)と呼ばれた肥沃で広大な土地で(現在でも、水沢市・胆沢郡一帯は、岩手県の一大穀倉地帯である)、またそこは「賊奴奥区」(史料二〇六)とも呼ばれた、蝦夷勢力の重要拠点である。
 遠征軍は三月末には、北に胆沢平野を一望できる、その南端の衣川に陣をはった。軍営は、前・中・後と三つに分けられて布陣した。しかし蝦夷軍と間近に対峙して慎重になったのか、そこから先の進展がない。征討軍は衣川に陣取ったままで、そのうちに五月には副将軍の一人佐伯葛城が死ぬといった有様である(史料二〇四)。
 この停滞に激怒した桓武天皇に叱責されて(史料二〇三。史料一七二の宝亀十一年の譴責内容とよく似ていて興味深い)、六月初め、ようやく進軍が決まる(以下は史料二〇五による)。前・中・後の三軍のうち、中・後軍からはそれぞれ二〇〇〇人を出して北上川を渡り左岸を北上、前軍(史料には明記されないが、おそらく中・後軍と同じく二〇〇〇人であろう)は、同右岸をそのまま北上し、巣伏(すぶし)村(水沢市東郊の四丑(しうし)付近)で合流する作戦であった。
 中・後軍が「賊帥阿弖流為(あてるい)」の居に至るころ、蝦夷軍三百人ばかりの迎撃に会ったが、官軍は強く、蝦夷は退いたので、途中の一四ヵ村八〇〇戸を焼き討ちしながら巣伏村に進軍したという。ここに胆沢方面の蝦夷軍の首魁(しゅかい)の名が初めて正史『続日本紀』に登場する。
 実は「阿弖流為」最初の三〇〇人の蝦夷軍はおとりであって、官軍を奥地に誘い込むための罠(わな)であった。官軍がその前方を、突如現れた八〇〇人の蝦夷軍にはばまれて混乱に陥った最中に、今度はその後方を、東山から現れた四〇〇人の蝦夷軍にふさがれ、官軍はもはや北上川に飛び込むしかなかった。官軍の戦死者は二五人、矢に当った戦傷者は二四五人、溺死者は一〇三六人、重い甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨てて裸身で川を渡って生還したもの一二五七人という有様で、まさに惨敗である。しかも幹部クラスの将五名をも失っている。片や蝦夷軍の死者は八九人(史料二〇七)。阿弖流為の完全な作戦勝ちであった。
 戦意を喪失した官軍は、これ以上の戦闘は輜重(しちょう)が大変だとか(史料二〇六)、胆沢を荒墟にしただとか(史料二〇七)勝手なことをいいながら、中央政府の許可も下りないうちに、軍を解いて帰京の途についた(史料二〇九)。これまた宝亀のときと同じである。当然のことながら、桓武天皇は官軍の将を激しく非難するが、古佐美はこれまでの功績に免じて不問。副将軍も官位剥奪という、意外に軽い処分ですんでいる(史料二一〇)。この理由は、一説には当時桓武の生母である高野皇太夫人(たかのこうたいぶにん)が病気であったために、桓武が死刑などの厳しい刑をはばかったのだともいわれている。