そうしたなかにあって、ここでもやはり津軽の動向が、乱の行方を決定づけるものとして注視されていた。『日本三代実録』には、「津軽が賊に同ずれば、大兵といえども制し難い」「津軽の夷俘はその党種多く、幾千人かわからない。天性勇壮で常に習戦を事としている。もし敵に回ればその勢いは止め難い」(史料三三五)といった記述が見られる。
実際には津軽の蝦夷たちは分裂していたらしく、ある者は賊に味方して乱を拡大するのに大きな力となった。しかし逆に津軽蝦夷のなかにも三〇〇〇人の渡嶋の蝦夷とともに出羽国の官軍に味方する者があり、その勢力が「賊気」を衰えさせるのに大きな力となったともいわれている(史料三三八)。
阿倍比羅夫以来、「賊をもって賊を伐つ」「夷をもって夷を撃つ」のは、強固な部族連合、さらには国家まで形成して中央政府に抵抗しようとはしない、政治的に未熟な蝦夷集団を討つ、征夷戦の常道であったが、今回も官軍に協力した津軽~渡嶋方面の蝦夷の果たした役割は大きかった。「夷狄をもって夷狄を攻むるは中国の利なり」と述べられている(史料三三五)。