一六世紀から一八世紀の寛政元年(一七八九)、アイヌ蜂起の時期頃までに位置づけられる考古学的調査の示すチャシの盛行は、仔グマ飼育型クマ送り儀礼の発達とも呼応しており、それは社会的な緊張の中で集団内における連帯性を高める手段としてのさまざまな活動を果たすための機能をもっていたとするならば、東北地方北部に出現する古代の環壕集落の本来的性格も、チャシに関する考え方のひとつである「祭祀を媒介として外観を砦(とりで)構いとした領域の占有表示施設としての本質的意義」をもっていたとみることができる。すなわち、チャシ自体も初源的形態は壕を境として実生活圏との区切りを施した聖域から、のちに軍事的色彩を強めた砦としての機能を備えていったとする見解があり、壕や土塁をめぐらして区画を施すという行為の普遍的性格については、それがひとつひとつの機能化された存在だったのではなく、多くは複合的機能を備えた存在だったとみることができるであろう。