黄海の戦い

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しかし安倍方では、その後は貞任を中心に結束を固める。天喜五年十一月、頼義が兵千八百余人を率いて貞任を討とうとすると、貞任は逆に四〇〇〇人もの精兵を集めて河崎(かわさき)柵(岩手県川崎村)に入り、黄海(きのみ)(岩手県藤沢町黄海)で頼義軍を撃破した(史料四四六)。この戦いは前九年合戦前半のハイライトであるが、官軍は激しい吹雪のなか、糧食も少なく疲れ果てて、貞任軍の完勝に終わった。頼義軍は残すところわずかに六騎であったという。
 このとき苦戦のなかで百発百中の弓矢の腕前を披露し、貞任軍は恐れてだれもあたろうとしなかったと伝えられるのが、頼義の子の義家(よしいえ)である。夷人が「八幡太郎」と名づけたと『陸奥話記』には記されている。
 この後、しばらくのあいだは安倍軍が主導権を握っていた。藤原経清は衣川関に出て、磐井郡以南にも進出し、使を出して諸郡から官物を徴収したという。
 その際に経清が用いたのが「白符(はくふ)」である。これは朱の陸奥国印が押された「赤符(せきふ)」に対する用語らしく、要するに国印が押されていない命令書である(写真65)。

写真65『国史略』天喜5年9月条
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 もともと奥六郡をはじめこのあたりの安倍氏の勢力圏では、鎮守府から安倍氏が徴税を請け負っていた。安倍氏の支配の及ぶ地域は、すべて所当賦課の対象地であるという論理を振りかざしたのである。