平泉で栄えた奥州藤原氏の二代基衡(もとひら)は、同地の毛越(もうつう)寺建立にあたって、京から呼び寄せた仏師に北方の珍物を与えたが、その中身は金・鷲羽・水豹(あざらし)皮・絹などのほか、山海の珍物も添えたとある(史料五二一)。この史料は、一二世紀段階で北から南へ送られた物資の一部を示したものであり、交易という視点からみると、絹などの加工品を除けば、ほとんどが鉱産・漁産・狩猟などの自然採取資源が大部分であったことを示している。これらの物資は南の消費地に運ばれると、二次加工が施されたり、消耗品的に使用されるため、現在まで残存することは少なく、考古学的資料として出土することはほとんどない。
これに対し、南から交易でもたらされたモノのなかには、陶磁器や金属製品といった残存率の高い資料が多く、その生産地や組み合わせによってどのように運ばれたのか、どれぐらいの規模で交易がなされたのかを、うかがい知ることができる。とくに、経済行為の媒介となる銭貨の流通は中世段階で急激な進展をみせ、その出土状況からも交易の在り方が理解され始めている。