奥州惣奉行制の確立

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こうして日本史上初めて、東北のほぼ全域が統一国家の領域に組み込まれることとなった。頼朝は京都の朝廷に対する鎌倉の軍事権門として、全国の武士を指揮統制する地位に立ったのである。頼朝は朝廷から陸奥・出羽両国を知行する「奥州羽州地下(じげ)管領」権=奥州総地頭職権を獲得した。
 文治六年(一一九〇)三月十五日、平泉と並ぶもう一つの東北支配の要衝多賀国府に、新たに伊沢家景(いさわいえかげ)を陸奥国留守職として任命した。それまで多賀城にいた陸奥国留守所の長官(「本・新留守」)は、先にも触れたように、兼任の乱に加担したことによって追放されていた。軍事・警察権を中心に担当する葛西清重に対して、家景は民事・行政を中心に担当することになった。
 ここに葛西清重・伊沢家景の二人が相並ぶ、いわゆる奥州惣奉行制が確立したのである。こうして東北地方には、頼朝の意向が直接に及ぶ支配体制が確立していった。ちなみに伊沢家景の子孫は、代々その職を世襲し、その職名にちなんで、留守氏を名乗るようになっていった。
 これを受けて、青森県の地にも次第に鎌倉御家人が入部することとなり、その支配が展開することとなるのである。古代国家の地方支配はついに県下にまで及ばなかったが、鎌倉幕府の統一的な地方制度である地頭制は深く浸透することとなり、いわば内国化が以後急速に進むこととなった。