津軽曽我氏の出自

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平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。この津軽曽我氏が、治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵による石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対したものの、のちにその麾下(きか)に入った曽我太郎祐信(すけのぶ)(仇討ちで有名な曽我兄弟の義父)の一族であることは、のちに祐信の本領である相模国足柄上(あしがらかみ)郡曽我郷の一部を猶子(ゆうし)として伝領していることから明らかである。
 元禄十一年(一六九八)の自序をもつ『奥羽永慶軍記』に、この曽我氏を駿河国有度(うど)の領主伊原左衛門尉の末裔とするのは誤りで、れっきとした平姓曽我氏の一族である。
 しかし当初においては関東に所領を有していた形跡がなく、曽我氏庶流として早くから得宗被官となり、東北地方を中心に活動するようになったものらしい。すでに述べた和田合戦においては、当初去就に迷った曽我氏も、結局は北条氏の味方をしており、あるいはそれを契機に得宗被官化したものとも考えられている。