曽我氏は姻戚関係を通じて高麗氏からも所領を伝領した。泰光夫人慈照の母蓮阿は高麗景実の女子で、宝治二年(一二四八)に武蔵国高麗郡東平沢の内を景実から譲渡された(新渡戸文書)。いつのころかそれが慈照へと譲渡され、その死後、慈照の子光頼が伝領しようとしたらしいが、正慶二年(一三三三)三月には相論の地になっていたことが知られる(斎藤文書、遠野南部家文書)。
このように姻戚関係を通じて得た所領は、いずれも相論の対象になりやすく、確実に曽我氏に伝領されていったことがわかるのは、津軽平賀郡の沼楯村程度である。