この年八月、陸奥国伊達郡の自然の要害霊山(りょうぜん)にあった北畠顕家は、ようやく足利郡の包囲網を破って再度西上、いわゆる第二次長征を行った。十二月には利根川の戦いで足利尊氏の嫡子義詮(よしあきら)を破り、ついで鎌倉を攻めて斯波家長を自害させるなど、またしても耀かしい戦果を挙げながら奈良に入ったが、戦況全体を、南朝方に好転させるまでには至らなかった。
明けて暦応元年(延元三年、一三三八)五月には、北畠顕家・南部師行が和泉国石津で、また閏七月には新田義貞も越前国藤島でと、南朝方の主力武将が相次いで討ち死にし、南朝方はいよいよ苦戦を強いられることとなる。なお顕家は享年二一歳の若さであった。