応永元年(一三九四)ころ、関東諸国に兵乱があり、さらに「北海夷狄」も動乱を起こし、戦乱が止むことがなかったと伝えられる(史料七四二)。そして「北海夷狄」の動乱は、康季・鹿季によって鎮圧されたという。
この動乱の背景には沿海州地域の動向があるという。明朝は永楽七年(一四〇九)にアムール川下流のチルに極東の広大な地域を支配するための奴兒干都司(ヌルガントジ)(本来はほかの都司と同じように軍政機関であるが、広大な地域を支配する唯一の機関として位置づけられていたために、事実上は軍民政一体の地方行政機関となっていた)を設置した。そして、永楽十一年にこの地に永寧寺を建立し、その顛末を碑に刻んだ。その後、この地域の住民の反抗に遭い永寧寺が破壊されたため、宣徳八年(一四三三)に再建され、新たな碑が建てられた。この二つの碑に刻まれた碑文は、サハリンのアイヌやほかの諸民族に対して明朝への服従を強要したことなどを伝えているという。
明朝における支配はサハリン南部にまで及び、これに接する北海道や本州北部の「蝦夷」の人々にも大きな影響を与えることになったのであり、「北海夷狄」の動乱は、こうした沿海州地域の変動下に起きたものであった。安藤氏の「蝦夷沙汰」の対象がその地域での交易活動を含んでいたということからも、北奥羽の世界と無関係のものであったとは考えにくく、この動乱の鎮圧は、北奥羽の南北朝の動乱を終わらせ、新たな時代の幕開けをもたらした事件であった。