「国日記」貞享三年(一六八六)五月五日条にみえる、「東桶屋頭」の弟が南溜池に投身したという記事をはじめとして、南溜池への投身自殺または未遂、南溜池への死体の投げ捨て、南溜池付近における行き倒れ、「水稽古」における事故死、捨て子等、約四〇件弱の事件を「国日記」から拾うことができる。
このなかで、武家の身分もしくはそれに連なるものは三件で、そのうち享保十二年(一七二七)七月の留守居支配の毛内甚太左衛門の溺死は、「水稽古」すなわち水泳の訓練において事故死したものであり(「国日記」享保十二年七月十一日条)、あとの二件は、天保二年(一八三一)九月、武家の娘の投身自殺(同前天保二年九月三日条)と、翌三年四月、同じく武家の娘の溺死とであった。純粋に武士の南溜池における死亡は享保十二年のケースのみであって、これは事故死である。すなわち南溜池においては、武家身分にある人間の投身自殺はなかったといえよう。ほかに子供の死亡例は若干みえるが、事故死であろう。このようにみてくるならば、南溜池における死亡例は、圧倒的に町方・町人が多いのであり、それは一八世紀に入ってからしだいに増加する傾向にあった。