(二)食事

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 一般的には、米作地帯の農民でも純粋の米(玄米)の飯を食べることは、あまりなかったといってよい。武士ですら大多数は、米七・麦三の割合であったという。田畑半々ぐらいの所では粟・麦などの雑穀が主食で、米を中心にした飯は正月とかその他の祝い日に限られていた。調味料の中心は塩・味噌で、もちろん自家製であった。醤油があまりいられなかったのは、製法が難しかったからである。味噌汁のほかに副食は漬物と各種の野菜である。物日(ものび)(祭日・祝日など特別なことの行われる日)や祝儀・不祝儀の時の御馳走は豆腐と魚であった(『生活史』Ⅱ 一九八五年 山川出版社刊)。
 津軽領の農民に対する食事全般についての制限令は、「国日記」貞享四年(一六八七)八月六日条に、三ヵ条があるが、これまで出されたものよりも詳細な規定がみられ、要約すると左のようになる。
(1)米だけの飯は正月一日~三日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日だけに限られ、これらの日以外は米三分の二に雑穀三分の一を混ぜて食べること。すなわち、米二に対し雑穀が一の割合である。

(2)日常、自分の家で酒を醸造してはならない。

(3)日常、魚や鳥を食べることを禁止する。年頭・節句・祝儀の時は軽い肴(通常の料理)を準備し、重い肴(豪華な料理)とする時は庄屋の指示に従うこと。

 特に(1)にみられるように、米と雑穀との混食はカデメシといい、カデは稗(ひえ)・粟・いなきび(こきび)などである。それでも津軽領の農民は一年に七日は米の飯を食べることができたのであるから、全国的にみても穀倉地帯の恵まれた条件下にあったといえよう。